柳緑花紅
彼岸の意義を考える
駒澤大学名誉教授・佐々木宏幹


彼岸は先祖信仰と農耕儀礼と仏教が結びついて成った

 「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、人びとは春秋の彼岸を境い目として寒暑それぞれ衰え、よい気候になると考えていた。
 「彼岸」は「此岸」の対照語であり、サンスクリット語のパーラミター(波羅蜜多)の訳語で、一般に迷いの此岸から悟りの彼岸に到ること、つまり「到彼岸」を意味するとされる。
 したがって「彼岸」は本来季節の分かれ目である春分・秋分とは無関係であったと言えよう。しかも仏教史の知見によると彼岸会はインドや中国では行われておらず、日本独自の行事であるとされる。では現行の行事・法会としての「お彼岸」はどのようにして成り立ったのであろうか。これまでの仏教民俗学の成果を踏まえて考えてみたい。
 近代まで農耕文化に依存してきた日本人にとって、太陽は稲作・畑作の豊穣を保証する最重要な存在=天道神であった。
 「お日さま」が真東に出て真西に沈む彼岸の中日は、人びとが農耕の無事と豊穣を天道神に祈願するのに最適の日であった。
 また人びとは春の農耕開始にあたり、先祖霊に供養し、豊作をもたらすように祈願した。農耕生活において太陽信仰と先祖信仰とが結びついたわけである。
 秋の彼岸会は、農産物の収穫期に人びとが太陽と先祖の「恵み」に感謝する営みであった。
 仏教が人びとの生活のなかに滲透し、西方に極楽浄土があるという教えが普及すると、人びとは太陽が真東に昇り真西に没する彼岸の中日に死者の冥福を祈り、西方にあるとされる「仏国土」と先祖を結びつけてその安泰を願うようになった。
 民俗学者のなかには、「彼岸」が一般化した背景には、人々が太陽に願った「日願」という語があると主張する人もいる。
 いずれにせよ生活仏教文化としての「お彼岸」は、仏教と農耕儀礼と先祖信仰との連携により成ったとされることに注目したい。

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