道元さまの思い出(15)
師弟ふたりのひみつ
――『宝慶記』の謎を探る●2
歴史ルポライター 深見六彦
道元禅師は建長五年(一二五三)、旧暦八月二十八日深夜に、京都高辻西の洞院にあった俗弟子覚念の屋敷で亡くなられた。五十四歳だった。九月六日、真葛ヶ原で荼毘に付され、懐奘や寂円の胸に抱かれた禅師の遺骨が永平寺に到着したのは九月十日。入涅槃の儀式を済ませた懐奘は秋から冬にかけて、永平寺方丈の間で道元禅師の遺品や遺稿の整理をしながら、『正法眼蔵』等の編集を進めていた。十二月十日のこと、懐奘の傍らにやって来た寂円が古びた文箱を差し出した。その中にはたくさんの書付が入っていたのである。
寂円でございます。
懐奘さまにお渡しした書付は、天童山にてご修行中の道元さまが、先師如浄さまとの問答をそのつど記録されたものです。ざっと四、五十点はありましたでしょうか。鎌倉から帰った翌年(一二四九)、道元さまのお部屋にうかがった折に、「これを読むと、宋でのことが、昨日のことのように思い出されますね。大事に持っていてください」とおっしゃって手渡されたのです。
ときどきそれを読みながら、ふるさと中国のこと、如浄さまのこと、天童山景徳禅寺のこと、若き日の道元さまのこと、亡くなられた明全さまのことなど、あれこれを懐かしんでおりました。道元さまが亡くなられて気が動転し、すっかりこの書付のことを失念していたのですが、懐奘さまが道元さまの遺品などを整理されていることをお聞きし、方丈の間へお持ちしたのでございます。
懐奘はすぐ一巻に書き写した。愛知県豊橋市の全久院に所蔵されている県指定の重要文化財『宝慶記』がそれである。漢文で約七千二百字。天童山で修行していた道元禅師が、師匠の如浄禅師との問答を備忘録として残したものがまとめられている。この求法のメモが記録されたのは、中国の宝慶元年にあたる一二二五年七月二日から、如浄禅師が天童山を退院した翌年の暮れころまで、というのが研究者の説である。
メモの内容は、「参問の許しを乞う」一文を除くと、ほとんど道元禅師の質問と如浄禅師の教えを問答体で記録したものである。教理・実践・規則などから、日常の細かな作法にいたるまで広範にわたっている。坐禅に関する記述も多い。修行の過程で、道元禅師は師に教えてもらった坐禅こそ真の坐禅であり、正伝の仏法そのものだと確信する。真の坐禅を多くの人たちに知ってもらい、実行してもらうことこそ、生涯を貫く自分の道だと思うのであるが、『宝慶記』にこんな問答がある。
如浄「坐禅は身心脱落です。ただ坐ればよいのです」
道元「身心脱落とはどういうことですか」
如浄「坐禅をすることです」
道元禅師は帰国してすぐに『普勧坐禅儀』を著わした。
寂円でございます。
如浄さまの侍僧としてお勤めをしておりましたので、この備忘録のことは良く知っております。実はときどき読ませていただきました。おかげで如浄さまの教えを間接的に得ることができ、また、そうした気配りをしてくださる道元さまのやさしさにも触れることができました。なんと心のやさしいお方なのだろうか。ああ、道元さまの弟子になりたい、道元さまと日本国へ渡りたい、そう思うようになっていったのです。
師弟愛に満ちたこんな思い出話を聞きながら、書き写しを終えた懐奘は、親しみのこもった柔和な顔を寂円に向けてこう言った。
「どうぞこの一巻は寂円さんがお持ちください」
(以下次号)