特集インタビュー
車谷長吉(直木賞作家) ◇ 聞き手 横内武彦(編集部)
直木賞作家、西行と仏教を語る
今回は『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞され、その後も意欲的な作品をつぎつぎ発表されている作家・車谷長吉さんに、ご自身の半生を振り返りながら人生、西行、仏教などへの思いを語っていただいた。若いころ出家を熱望された車谷さんだけあって、姿かたちだけ見るとお坊さんそのもの。お会いした瞬間、思わず合掌しそうになったが、お聞きしたお話も、名僧顔負けのたいへん個性に富んだありがたい説法であった。
車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ)
昭和20(1945)年7月、兵庫県飾磨(現在の姫路市)に生まれる。昭和43年春、慶応義塾大学ドイツ文学科を卒業、広告代理店や出版社に勤めながら小説を執筆。その後挫折してふるさとに戻り料理屋の下働きなどをしながら9年間にわたる非僧非俗の生活を送る。しかし作家の夢を捨てきれず再度上京、書き継いだ私小説6編を収めた初めての作品集『鹽壺の匙』(新潮社)で、芸術選奨文部大臣新人賞、三島由紀夫賞を受賞する。平成10年には『赤目四十八瀧心中未遂』(文藝春秋社)で第119回直木賞を受賞。他に『漂流物』(新潮社、平林たい子文学賞)、『白痴群』(新潮社所収の「武蔵丸」で川端康成文学賞)、『銭金について』(朝日新聞社)などの作品がある。今日も「自己の存在の根源を問う私小説」を書き続けている。
世捨て人への憧れ
……車谷さんは二十五歳のときに、『西行法師全歌集』を読まれて、世捨て人として生きたいと思われたそうですが、年齢的に随分、早いという感じがしますが。
車谷 いや、そんなに早くないですよ。西行は二十三歳で出家遁世している。平安時代に書かれた『大鏡』に出てくるんですが、佐藤義清(のちの西行)という貴族が出家したというのは、当時、大変な都の噂でね。佐藤氏は藤原氏ほどの上級の貴族ではなかったけれど、一応貴族なんですよ。紀州、現在の和歌山県が全部領地だったから、そこからすごい年貢米が上がる。それほどの金持ちで、健康で、武士としての腕も立つ強者がですね、妻も子供もいるのになぜ出家したんだろうというのは大変な噂になった。その謎はいまだに謎のままなんですがね。西行自身も、一切口を閉ざしてるんです。それで、失恋したんじゃないかとか、いろんな説がありますが、そんなものはみんな後からの当て込みですよね。ともかく、僕が二十五歳で出家したいと思ったとしても、決して遅くない。
……それにしても二十二歳のとき慶應大学独文科を卒業されて、まだ二、三年ですよね。それでもう世捨て人、つまり坊さんになってもいいと思われたのは…。
車谷 なってもいいというより、ぜひなりたいなと思った。
……その理由はなんですか? 車谷 非常に遅いんだけど、そのころ初恋というのがあってね。だけど、相手の人は僕のことを捨てて、よその人と一緒になっちゃったわけ。それで、生きがいを失なってしまったんだな。それから、そのころ広告代理店に勤めてたんだけど、仕事に失望してね。こんなことを定年まで四十年もやるのかと思うといやになってしまった。じゃ、何かほかの職業だったらいいのかと言うと、外交官、弁護士、新聞記者とかいろいろ考えてみたけれど、どれも自分がやってみたい職業はない。それで、出家というようなことを考えた。
板場で非僧非俗の生活
……車谷さんは姫路のご出身ですが、それで二十九か三十歳になって、郷里へ帰ってしまったんですね。文学の才能を早くから嘱望されていたのに、その後関西で料理屋の板場(=板前)をされていた。それからもう一度、東京へ出てこられるまでの八、九年というのは?
車谷 まあ、修行だな。決して誰にも口には出さなかったけど、自分では世捨て人のつもりだったし、文学を捨てたつもりだった。ところが、東京から編集者が、僕の働いていた料理屋まで迎えに来るわけです。ぜひ東京へ帰って来て文学に励んでほしい。あなたは必ず芥川賞か直木賞を取れる人だからって、おだてるわけですよ。
……それが再び、文学にアプローチするきっかけになったわけですね。
車谷 それは、心を打たれるわね。自分のような者にこんなにしてくれてと思うしね。でもね、編集者たちはとにかくおだてながら、ぼろくそに僕のことをこき下ろすわけですよ。おまえなんか馬鹿だ、あほだ、死ねとか、こんな料理屋で毎日漬物を漬けていて、何を生きがいにしているんだというわけ。それで、いや、漬物を漬けてるといっても、おいしいと言って食べてくれる人もいるんだから、それはそれなりの生きがいはあるんだよって言ったんですけどね。ご飯を炊くのだって難しいし、それをおいしく炊けばお客さんは喜んでくれるわけで、それはそれなりに喜びはあるんですよ。
料理場というところは世間からは隔離されたような場所ですからね。だいたい、朝六時ぐらいに起きて店へ出て行って便所掃除をする。それから夜十一時くらいまで働いて、そのあと洗い物をして帰るわけだから遊ぶ暇もない。僕も一所懸命働きましたよ。僕は今、五十七歳なんだけど、あの九年間は一番、とにかく気持ちが澄み切った状態で暮らすことができたな。金が欲しいとか、女が欲しいとか、誰かにおべんちゃらを言うとか、そういう俗気というのがほとんどなくて済むわけですよ。給料は月二万から五万ぐらいだったから仕事のあと風呂屋へ行って、それでもう、あとは何もないよね。新聞は読まない、テレビも見ない、ラジオも聴かないでしょ。それから、電話も持たないし、友だちとも一切交際しない。孤独と言えば孤独なんだけど。
……やっぱり、世捨て人みたいだったんですね。
車谷 僧にあらず、俗にあらず、悲僧非俗の生活だね。自殺すると親が悲しむからいやだし、料理場の片隅で下働きをやってるのが一番良かったんだな。
……つらいというか、もっと楽しいことをしたいという気持ちはなかったんですか?
車谷 なかったね。料理人というのは大概、競馬、競輪といった賭け事をするんだけど、僕は一切加わらなかった。でも、どこかの会社に勤めて偉くなりたいとか、料理場の親方になって、おまえ、これせい、あれせいとかいって命令するというのもいやだったしね。卵を焼けと言われたら卵を焼くと言うか…。
それでも、絶えず考えていたのは、お金を払って食べに来てくれる人に、おいしかったなと思って帰っていただくということだね。だから、怠けていたら駄目だ、心を尽くして料理を作らなくてはという気持ちはあったね。その九年間、大げさに言えば煩悩というか、そういうものから非常に遠ざかった生活だった。
西行はすべてを捨てたのか
……板場で働く一方、京都のお寺を回りながら、修行できる場所を探されたそうですが。
車谷 そうです。それで最初は建物からだけ判断して、知恩院がいいなと思ったんです。でも、知恩院の創始者である法然上人はどういう教えを説いた人なのかも全然知らないしね。それで後で、いろいろ仏教の本を読んで、それぞれの宗派の違いも勉強した。今は臨済宗が一番いいんじゃないかなと思ってるんだけどね。岩波文庫の『臨済録』という本を読んで見ると、なかなかいいことが書いてあるんだな。こういう教えがいいんじゃないかなとは思ったけれど、それでも、やっぱり僕にとっては仏の道というのは第二位なんだな。やっぱり文学のほうが面白いというか、心の中で反省してみると、自分はたとえ出家したとしても所詮贋坊主だなと思うわけです。
……贋坊主とか贋世捨て人とかいうのは、なにか本物より魅力的にも思えますが。
車谷 いや、僕は仏教の道にもし入ったとしたら、一生雲水でいたかったね。どこかの住職には絶対なりたくなかった。住職になると寺の経営ということも考えなきゃいけないから金に振り回される。朝から草取りをして托鉢をして風呂を焚いて、それでいいと思っていた。さりとて、仏道一筋にというか、一線を飛び越えるというか、最後の決心はつかなかったね。
……作品の中に、「お前、雲水になる宿縁がないんや」というくだりがありましたが。
車谷 それは、出家していた親しい友人に言われたんです。僕が出家しても所詮贋坊主であり、大げさに言えば仏様を裏切ることになるんだよね。僕は仏の道に入るというのは、やっぱり仏様をお慕い申し上げるというか、それが第一でないといけないと思うわけ。その意味では、西行も贋坊主なんですよ。仏道一筋じゃない。一番目は歌の道で、仏道は二番目なんですよ。西行はすべてを捨てたと言っているけど、それは嘘で和歌山の荘園だけは絶対捨てなかった。高野山で剃髪して形は出家ということになっているけど、どこにでも庵を作って一生遊んで暮らすことができた。
……西行は優雅な人生を送っていたわけですね。
車谷 世捨て人じゃないですよ。
……それで車谷さんは、「雲水になる宿縁がないんや」と聞いてどうされました?
車谷 あきらめたね。それで、とにかく東京へ戻って文学一筋でいこうと思った。でも、仏教の本は読み続けたね。『歎異抄』とか、それから、道元の『正法眼蔵』も読んだけど、あれは難しくて分からなかった。でも、その後僕がわかったのは、道元のずっと後の弟子が良寛なんだよね。良寛の歌を読むと、道元の考え方がよく分かりますよ。あの人は、要するに『正法眼蔵』の考え方を分かりやすく一般民衆に布教するために和歌を詠んでるわけですよ。良寛を読んで、初めて道元という人はこういう考え方だったんだなということが分かりました。
仏の教えは毛穴から
……車谷さんは、「人の生死には本来、どんな意味も、どんな価値もない」とも書かれていますね。
車谷 人間はたまたま知恵がついて、哲学というものを発明して、人生にはこういう意味とか価値があるというようなことを言ってきたわけです。ですが、そんなのは言葉のまやかしにしか過ぎない。死ぬことは怖いんだから。いくら仏教書を読んでも、悟りなんか開けませんよ。だから、「仏の教えは毛穴から」と言って、例えば田んぼへ出て働いて汗を流すとか。料理場なら「美味しいな」と言ってお客が満足そうな顔をしてお金を払って出て行って下されば、いささかでも人さまに慈悲を施したということになるわね。
……どんな人でも自分の役目をこつこつ全うする人は年をとってから仏の教えを無理やり聞いたり読まなくても毛穴から吸収しているという事でしょうか。
車谷 そう。読んだって駄目だな(笑)。読んだって分かるはずがないよ。
……どうしたらいいんでしようか。年齢と共に仕事もなくなってきますが。
車谷 仕事がないっていうのは会社の仕事がない、金儲けをする手段がないということをいっているだけです。「仕」というのは「する」という字ですよ。するという漢字を知っている人は非常に少ないんだけど仕事の仕ですよ。他人のために奉仕する気があれば、道にゴミが落ちているのを拾うだけでも朝から晩まで、仕事はあるんですよ。要するに人間が一生を通じてできる仕事を見つけること。いずれ引退とか定年とか廃業とかということが起きて、社長ですらやめざるを得ない時がくるんだからね。文学とか音楽とか絵とか工芸品だとか、これが仕事だと思ってずっとやればいいわけです。
……仕事と思ってこつこつと積み上げていく。急に定年になって、趣味を持とうとするのがいけないのですね。
車谷 趣味じゃ駄目。
……だから、みんな絶望するんですね。仕事は「すること」として自分のものにすることが大切なんですね。
車谷 とにかく今は生き甲斐と死に甲斐のない人が多い世の中だね。サラリーマンの人生にはほとんど死に甲斐というものがないんだね。ひとことでいえばこころざしというものをもたなきゃいけないのですよ。金儲けは決してこころざしにはならない。生きるための単なる手段で最終的に目的にはならない。受験教育の中で目的と手段が逆転しているのが近代社会なんです。生き甲斐のある何かを残して死ぬしかない。生き甲斐を得るには少し足らざるというのが一番いいんだな。
……「少し貧乏」を自分の人生の指針にして来た、と書かれてありますね。
車谷 「非常に貧乏」は良くない。グルメもよくないね。少し貧乏というのが幸福なんだな。貧乏な状態を好きにならなければ感覚が狂ってくる。貧乏が大好きで、なおかつ、「少し貧乏」というのが一番いいね。
写真右は車谷夫人で詩人の高橋順子さん
(平成十五年四月・車谷長吉氏自宅にて)