平成十六年 恭賀新春
祇管打坐
大本山永平寺貫首(七十八世)
宮崎 奕保
あけましておめでとうございます。老衲もお陰さまで百四歳の春を迎えました。一昨年は高祖道元禅師さまの七百五十回大遠忌を無事勤めることができ、報恩のお給仕をさせて頂けましたことは、皆様方のご助力のお陰であり、ここに謹んでお礼申し上げます。
常々申しておることですが、仏教とは仏道のことです。高祖さまの仏教は仏道です。道とは真実の教えを実行することです。遠い話ですが、小僧の頃ご親化にみえた日置禅師(六十六世)から「坐禅坊主になるのだぞ」と言われた事があります。「本師老僧と同じことを言う方だなあ」と思いました。九十年近くも前のことですが、ありがたいお言葉でした。「祇(只)管打坐」は仏教という教えを実行した姿です。物質文明の発展のかげで、殺伐な事件が多発し人心の荒廃が叫ばれていますが、今こそ坐禅に親しむことで人の心を取り戻さねばなりません。それが「心外無法」の端的です。一人一時の坐禅が高祖さまの仏道です。児孫の勤めです。どうぞ坐禅に親しんで下さい。
雪月花
大本山總持寺貫首(独住二十四世)
大道 晃仙
あけましておめでとうございます。新春を迎え、謹んで皆さまのご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。
雪と月と花は、四季の美しいながめの代表です。唐代の詩人白居易の詩に「雪月花の時最も君を憶ふ」という一節があることでもよく知られています。
祖録においても、古来この「雪」・「月」・「花」はしばしば一所にまとまって引用されてきました。例えば、瑩山禅師の『洞谷記』に見られる先師徹通義介禅師の遺偈は、「蘆花、雪を帯び、午夜の月圓かなり」(蘆の白い花が雪を帯び、夜半の月はまどかである)という句で結ばれています。病が篤い義介禅師に代わり、瑩山禅師が書き残したとされています。
右の句でも感じ取ることができるように、禅の世界ではこの「雪」・「月」・「花」が、互いに関係し、影響し合いながら、同時に独自性、独創性をも示していると把握します。そのとき、互いに本来の面目を露わしている状態といえます。よく味わってみて下さい。そして、この一年どうぞ皆さまお元気でおすごし下さい。