新春対談
混迷の次代を生き抜く 仏教の智慧
【出席者】
養老 孟司 (東京大学名誉教授・解剖学)
佐々木宏幹 (駒澤大学名誉教授・宗教人類学)
司会 岡野葉子
養老孟司(ようろう たけし)
1937(昭和12)年、神奈川県鎌倉市生まれ。
95年東京大学医学部教授を退官し、現在、北里大学教授、東京大学名誉教授。
専門の解剖学、科学哲学から社会時評まで、著書多数。
佐々木宏幹(ささき こうかん)
1930(昭和5)年、宮城県生まれ。
66年、東京都立大学大学院博士課程修了。
駒澤大学教授等を経て、現在、駒澤大学名誉教授。
著書に、『神と仏と日本人―宗教人類学の構想―』(吉川弘文館)など多数。
今回お話し頂いたのは、著書『バカの壁』が話題の養老孟司氏と、本誌ではおなじみの佐々木宏幹氏。おふたりの話は、笑いあり、驚きありと、ジャンルを超えて無限に広がります。日々の生活の中で知らず知らずのうちに作り上げてしまう怎oカの壁揩見つめ直してみる…そんなきっかけを与えてくれる対談です。
常識の壁を超えて行く仏教の考え方
司会 養老先生の『バカの壁』という本がベストセラーになっています。混乱に満ちた二十一世紀の初頭を生きるわたしたちに、常識をくつがえす新しい知のあり方を提示されているように思いますが。
養老 大体、僕の本を読んでくださる方は難しいとおっしゃるんです。常識をひっくり返して言うものですから、なかなか受け入れられないところがある。ところが、今度の本は僕が話したことを、出版社の若い編集者が今の話ことばで原稿にした。それで非常に読みやすく、受け入れやすくなったんだろうと思います。そのままだと反対が出るところを、一度別の人の頭を通すと広がりが出る。それは多分、宗教の極意でもあるんじゃないかな。次の代、次の代と人の頭を通って行った方が分かりやすくなり一般性が増す。
佐々木 初めにおっしゃった常識をひっくり返すということですが、宗教人類学では「トリックスター」ということばがあります。彼らは常識的な概念や知の体系をひっくり返していく。それによって人々のなかに、今までなかった別な認識や世界観が生まれる。多分、養老先生は意図的にそれを行っておられるのだと思います。この本で先生は、人間はそれぞれの脳が理解したことだけを分かっているのに、他人や世界を広く理解しているように錯覚してしまうところから、混乱や争いが生じるとおっしゃっているのだと思います。それを「バカの壁」とおっしゃっているわけですが、宗教においても同様な問題があります。世界の宗教紛争にみるとおり、凝り固まってしまってはどんな宗教も危険です。やはり、その「壁」を破っていかなくてはいけませんね。
養老 僕は小学生のころ、落語の蒟蒻問答が大好きだったんですが、仏教というのはもともと常識の壁を破るものを持っていると思います。
佐々木 とくに禅問答はそうです。世間的なロジカルな思考を壊して行く。ところが、社会生活においては、知というものはどこかで固定し定義を定めないと立ち行きません。必ずどこかで線を引いて、これはこういうものですよと限定してしまう。そうすると論理が一貫しているから、それだけで分かった気になってしまう。分かったと思ってしまうとそこで終わりで、それ以上の疑問が出てこない。
養老 それがすごいのは医者です。たとえば検査をして正常値からずれているから、正常値に戻しますと言って治療をして、正常値に戻ったら治りましたと言うわけ。だから、今のお医者さんというのは患者さんの顔を見ないですね。患者を診ているのではなく、情報化された患者さんを扱っている。いわば情報を処理しているんです。まさに人間不在なんですけど。
死ぬ気もないのに死んでいる日本人
佐々木 私も病院でお医者さんにしつこく質問すると嫌がられます。患者は医学の素人なんだからという顔をされる。しかし、それでは患者の心の不安は消えない。でも、まあ考えてみると、医者は患部の処理はしても患者の悩みまでは目が及ばないし、及んじゃいけないのかもしれない。
司会 及んじゃいけないんですか?
養老 それはいけないとは言いませんが、日本では医者と患者の関係がまだウエットなんです。それは医者の余計なお世話かもしれないし、実際そこまで背負い込んだら医者は仕事にならない。そこはドライに切る必要がある。でも問題は、切るときに相手もそう思っていればいいんですが、往往にそこが食い違うから難しい。そのあたりは、宗教家はもっと難しいんじゃないかな。どこまで相手に立ち入るかという問題があるでしょう。
佐々木 おっしゃる通りです。宗門の禅定家として知られる、丘宗潭老師の逸話だったと思いますが、こんな話があります。ある人が「生死の事をどう考えたらいいですか」と老師に訴えると、老師は「誰の生死か」と聞かれた。「私の生死です」と答えると「なら、お前一人くらい死んだってどうということはないよ」と言われたそうです。宗教家は人の悩みを聞いて救うものだという常識の壁を破って「死んだってどうということないだろう」と。それによって、相手にある種の境地が開けるということもある。
養老 こういう話もあります。青木ヶ原では首をくくる人が多いんですが、あるとき、青木ヶ原から道に出てきた男がいたので、村の人が「どうなすったんですか」と聞いた。そしたら「いや今、高い木の上で首をくくったら、枝が折れて落っこちた」と。「それで大丈夫ですか」と聞いたら、「いや、びっくりした。死ぬかと思った」と言ったという。僕はそれを読んで一日笑っていたんですけど。この話によく表れていると思うのは、今の日本人です。世間の中で思い詰めて首をくくる。本人も死ぬつもりなんです。それが、枝が折れて落ちた瞬間、はっと目覚める。「死ぬ気はないのに死んでいる」人間というのが、そこに歴然と出ているでしょう。
人生とは取り返しのつかない決断の連続
司会 常識を壊していくところから物事が始まると。それにはまず壊す常識がないといけないわけですよね。
養老 それがない典型は学生です。どうしてかというと、自分が終点になったことがないんです。例えば患者さんに注射をして、その注射が間違っていて患者が死んでしまったら、こちらの責任でしょう。終点というのはそこからもはや後戻りができないという意味です。ここで終わりという経験をすると人間は変わりますよ。ところが今は、これで物事が決定してしまうという状況に若い人は置かれたことがない。生きるということは、そのつど、そのつど、後戻りのできない決断をしながら時間を過ごしていくことだということを学生は知らない。そういう意味で常識がないんです。学生だけでなく、今はかなり多くの大人が学生並のまま育っているのでないかという疑いを僕は持つことがある。生命倫理の議論などを聞いていると、おまえは本当に終点をやったことがあるのかと思う。患者の最期を看取るということは、医者の仕事でもあるわけですが、そこでは安楽死や脳死の問題なども出てくる。自分がその立場に置かれて最期を看取る責任を負っているときに、自分は果たしてどういう態度を取るだろうと具体的に考えたことがあるのかと言いたくなる。人間は日々、判断し決断し生きている。それに対しては最終的には一人一人が自分で責任を取らなければいけない。それを若い人たちに、どういうふうに教えるかということが問題ですね。
司会 その問題は近年盛んに議論されている教育改革とも関連するように思います。先生ご自身のお考えは?
養老 僕はいつも体を使わせろと言っているんです。現代社会というのは頭の世界です。若い人たちは、寝たら最後だと思っている。寝たら意識がなくなる。意識がなくなったら、それは人生ではないと思う。だから、ずっと起きている。夜中にコンビニに行ったら若い人しかいないでしょ。それで最後に我慢できなくなって寝てしまうまで起きている。夜更かしの朝寝というだけのことです。それを現代文明とか言っている。個人に視点を戻せば、体のことを考えていないということでしょう。今の人は考えを変えたら自分が変わると思っている。そうではなく、自分を変えるためには体を変えていくのが一番早い。
佐々木 それについては、禅では「身心一如」を説きます。僧堂での修行生活を見ると、頭で学ぶな、体で学べという。朝は三時半に起こされて坐禅。それから食事、掃除、学習、坐禅と続く。ところがコンビニに群がる今の若者たちは時間どおりの生活をいやがるんですね。一方、親の中には永平寺の修行生活などをテレビで視て感銘を受け、うちの子供もあそこでたたき直さないといけないという人もいる。禅のそういう伝統は非常に大事ですね。
体を使うことを忘れてしまった日本人
養老 体はいつできたかと言えば、初めは直径五分一ミリの受精卵ですが、それが大きくなっていく。その途中で意識ができてくるわけですが、意識はやがて死ぬ前になくなるんですから、意識は体の働きの一部に過ぎない。体の方がよっぽど広いんだから、その一部である意識(脳)が広い方を分かっていると思うほうがおかしい。日本の古来の芸能はみな体をちゃんと使っているでしょ。茶道なんてまさに体そのものじゃないですか。それをやらなくなったから日本人は、僕も典型ですけど、外国に行くと様にならなくなった。どういうふうに振る舞うかという教育やしつけを受けていないからです。それなのに日本人は体格が悪いから見劣りするんだと戦後言ってきた。それは全く違う。今の若い人のように立派な体格になっても、外国に行ったらますますみっともない。体をどう扱うかというしつけを日本人は基礎から壊してしまったんでしょう。
佐々木 明治以降、西洋の学問を輸入したころから、日本では身心一如を分解して、知育・体育、徳育というふうに教育を分けた。それで将来、日本を背負う青少年は知育が大切だというので、体育に得手な者は頭が悪いと言うような、「バカの壁」を作ってしまった。
養老 それを脳の方から言いますと当たり前なんです。赤ん坊がどう育つか見るとよく分かるんですが、最初は赤ん坊は寝たままで、自分の手を目の前で動かしている。そうすると手の動きにつれて手の大きさや位置が変わって見える。さらに手を動かすと、また変わる。この場合、手を動かすのは脳からの出力、目で見るのは脳への入力です。これを繰り返すことで赤ん坊の脳に出力入力の関係式ができてくる。次にはいはいを始めたり歩き始めると、三次元のさらに複雑な関係式を覚えていく。脳はその出力入力による結果を見てまた出力をし入力をする。そういう計算をずっとやって、その間で共通しているパターンだけが脳の中に法則として埋め込まれていくわけです。その出力とは何かというと動きでしょう。そして入力というのは感覚。それを昔の人は文武両道と言っているんです。文というのは入力、武は出力です。それを文というのは畳に坐って本を読むことで、武というのは道場で竹刀を振り回すことだと思ってしまったのが間違いです。文と武、入る方と出る方とがつながって循環するのがまともな在り方だということです。
原始的な人ほど先端を扱う能力がある
司会 話題は変わりますが、養老先生の宗教観をお伺いしたいのですが。
養老 宗教観ですか。そんな抽象的なことは考えたことがないんですけどね。僕は中学、高校はカトリックの学校で、そこでは一種の宗教教育をやっていた。神の存在証明とか、神学の初歩をやった。こちらは生意気盛りの中学生ですから、神は全知全能であるとか聞くとつい議論をしたくなる。後で思ったのは、『聖書』にある「放蕩息子の帰宅」じゃないですが、宗教というのは、こちらが反発すればするほど引っ張り込まれるんですよ。ですから、とくに宗教観というものは何もないんですが、選んだ職業が解剖でしょう。死んだ人を扱うという点では、お坊さんと同じ。それで、東大の医学部では年に一回、解剖体慰霊祭というのを谷中の寺でやっているんです。ところが、国立大学がそれをやるのは憲法違反だという議論がある。とにかく日本人の宗教音痴には僕はあきれかえっています。典型的な例は、無宗教の国立戦没者参拝施設を造るという議論ですよね。参拝施設に詣でるというのは、これは宗教に決まっている。上に無宗教と付ければ宗教ではなくなると思っているのは呪術的思考で、人類学で言えばおまじないのようなものです。
佐々木 本当にそうです。死者に手を合わせるということは、そこに見えない存在を意識して拝むわけで、それは宗教です。私の教え子の一人が亡くなったときのお話をしますと、自宅に移すまでの間、病院の霊安室に運ぶことになったんですね。霊安室のある地下二階はシンシンとして、不気味な雰囲気だった。そしたら職員の人が、やにわに扉に合掌して、「エ、エ、ヤ」と手刀を切ったんです。私は思わず、「それをしないと出ますか?」と聞いた。そしたら、「そうなんです。きょうはこれで四体目ですけど、前の仏がくっついていると、後から行った仏に悪さをしますから」と言うんです。私は仰天しました。最先端の医療技術を誇る大病院でも、地下の霊安室では原始宗教のアニミズムどころか、おまじないが支配しているわけですから。でも、私はこのコントラストの両方が人間の真実だと思っているのですが…。
養老 それは同居しているんだから大事なことです。どんな文化でも文明でも、先端に近づくほど、一番大事なのはそれを支える基礎でしょう。ベースが広くなければピラミッドは立たない。最も原始的な人が逆に最先端を扱う能力と権利があるんですよね。
一神教の壁を超えていく仏教の道
司会 先生はキリスト教のような一神教と、東洋の仏教のような教えとの間に対話が成り立つとお考えですか?
養老 僕はカトリックが一神教だとは思っていないんです。イタリアの教会に行ったら正面はまちがいなくイエス・キリストですが、その脇の部屋にはマリア像があるし、残りの部屋にも諸聖人の部屋があって、そこに、みんなロウソクを上げるようになっている。それはキリスト教とゲルマンの多神教とが融合しているからで、マリア信仰というのもおそらく地母神からきている。そのゲルマン人が都市生活を始めたときに、革めて創ったのがプロテスタントです。プロテスタントは厳しいんです。僕は好きじゃない。たばこを吸っても文句を言う人たちですから(笑)。
佐々木 プロテスタンティズムはキリスト教の「知」の部分ですが、実際に地球文明を支えているキリスト教の「体」の部分はカトリックです。例えば、フィリピンのカトリック教会にはイエス・キリストの等身大の像があって、箱から足だけを出している。その足にイエス・キリストの神秘的なパワーを頂きたい信者たちがキスして行く。それが三百年も続いたものですから、大理石の像が磨り減ってしまっている。カトリシズムは高度な教義神学を持つ一方で、実際には日本のお地蔵さん信仰のようなところがある。どちらが正しいということではなく、両方あってキリスト教という宗教が成り立っている。それは仏教でも同じで、教理としては「縁起」だとか「空」だとか高邁なことを言っていても、それだけでは寺の経営一つできません。
養老 それを人の体に例えれば心と身ですね。心だけでは駄目だし、かといって体は理屈では言えない。お前はいつ死ぬんだと聞かれても返事はできない。体の都合ですと言うしかないでしょ。意識としては分かりませんというしかない。
佐々木 そうですね。認識には限界がある。分からないことは無限にあって、どこまで学んでも永遠に解答はない。そこで人間は絶対の全知全能の神を考え出した。それに対して、仏教は「人間だもの」という思想です。愚かしいこともするが、超知的なこともやる。お釈迦様も人の子として生まれ、結婚して子供も残して、それから修行をして苦なき涅槃の境地を実現された。とくに二十一世紀には、この「人間だもの」という考え方が大事ではないでしょうか。人間が自覚して成長して行けば理想的な人格や社会を実現できるんだという方向にベクトルを変えて行けたらと思います。
司会 本当にそうですね。でも実現は難しいですね。
養老 いや、全然、難しくないでしょう。難しいと思っているだけで。
司会 それが、「バカの壁」なんですね。(一同笑)
(平成十五年七月一〇日収録)