道元さまの思い出(17)
宋国の滅亡に落涙す
――寂円の悲しみ
歴史ルポライター 深見六彦
禅寺において僧が掃除などの労務を行うことを「作務(さむ)」といい、修行の一つと見なされている。永平寺や宝慶寺(ほうきょうじ)のように豪雪地にある寺では、冬の間、屋根からの雪降ろしや外部との連絡路確保のための除雪といった雪作務がかなりきつい。最近は地球の温暖化で降雪量も昔ほどではなくなったとはいえ、雪作務の重労働は修行僧にこたえる。
現在よりもずっと厳しかった寒さや深い雪をものともせず、寂円(じゃくえん)は坐禅岩での坐禅行を十八年間も続けたという。銀杏峰の山麓に分け入ったのが五十代半ばの頃であったから、七十三、四歳まで、雪の日も、雨の日も、風の日も、春夏秋冬途切れることなく岩の上で坐禅を続けていたことになる。先師如浄(にょじょう)も亡くなる寸前まで坐禅をしていて、年老いた尻の皮はおおいに爛れていたらしい。その手当てをしたのが侍僧として仕えていた寂円であるが、さて寂円の爛れた尻を手当てしたのは誰だったか。晩年の寂円を語ることにする。
寂円の七十三歳というと弘安二年(一二七九)にあたり、中国ではこの年の二月半ば、長い消耗戦に疲れきった南宋軍がついに元軍に敗れ去っていた。遊牧民モンゴル民族がうちたてたモンゴル帝国を継いだフビライ=ハンは、一二六四年、カラコルムから大都(現在の北京)に遷都して、七年後に国号を元とした。その後南宋への侵攻を強め、一二七六年には首都の臨安を占領、この時点で宋の時代は終わったのだった。異民族による中国全土の支配は初めてのことであった。こうしたなかフビライは日本の侵略を計画して、文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の二度にわたり、大軍をもって北部九州の島々、沿岸部に襲来した。文永の役、弘安の役という。二度とも暴風雨と鎌倉武士による獅子奮迅の働きで、奇跡的にこの国難を乗り切ることができた。
宝慶寺や永平寺の近くを流れる九頭竜川はやがて日本海に注ぐが、その河口にあるのが三国港である。古くは三国湊として日本海沿岸航路の重要な港で鎌倉時代には北条得宗家の直接管理の下にあった。大陸からの貿易船もやってきたに違いない。当然ながら大陸の動向や元寇の情報などは、瞬時に伝わってきたと思われる。
寂円でございます。
宋国が滅亡したという知らせを聞いたときには、眼の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けました。涙があふれてとまりませんでした。これから祖国はどうなるのか。これまでの文化や人々の営みの蓄積が征服異民族に破壊されてしまうのではなかろうか。道元さま、如浄さま、明全(みょうぜん)さまとの思い出が詰まる天童山景徳禅寺(てんどうざんけいとくぜんじ)は大丈夫だろうか。さまざまな不安が一挙に押し寄せてまいりました。さらに元軍による日本への侵略開始とは……。さすがに平静ではいられない日々の連続でございました。伊自良(いじら)さまは「元など物の数ではないわ。捻り潰してくれる」などと笑い飛ばされておりましたが、事態は深刻でした。越の国もなんとも言えぬ緊迫感に覆われたのでございます。
宝慶寺宝物館に収蔵されている寺宝『宝慶由緒記』(大野市指定文化財)には、宝慶寺創建のいきさつ、その後の発展などが寂円の足跡に沿ってまとめられている。これは寂円の伝記史料としてはもっとも古いもので、宝慶寺十四世(永平寺十三世)の建綱(けんこう)大和尚が十五世紀半ば頃に撰述したものである。これには宝慶寺の歴史がかなりくわしく書かれているが、宋国が滅亡したことや元寇については一言も触れていない。建綱禅師が由緒記をまとめたのは元寇から百八十年近く経った頃なので、遠い過去の出来事としてすでに風化していたのだろうか。いや、そうではない証拠を次回に述べたい。
(以下次号)