特集 年回法要を考える

【出席者】
新谷尚紀 (国立歴史民俗博物館教授、 社会学博士)
清水勝美
 (曹洞宗龍仙寺住職)
司会 岡野葉子


新谷尚紀

1948年、広島県生まれ。
77年、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。
現在、国立歴史民俗博物館教授、博士(社会学)、総合研究大学院大学教授。
主な著書に、『両墓制と他界観』『死と人生の民俗学』『暮らしの中の民俗学』@〜Bなど。

清水勝美

龍仙寺住職。1937年、北海道生まれ。
52年、出家得度。60年、駒澤大学仏教学部卒業、大本山總持寺安居。
札幌プリンスホテル営業担当支配人を得て僧侶に復帰、龍仙寺建立。
曹洞宗特派布教師、大本山永平寺孝順会会員、札幌市人権擁護委員などを歴任。


 近年、葬儀のあり方や亡くなった人の弔い方の変化にともない、年回法要のかたちも少しずつ変わってきているように思います。単なる型の継承から、今一度その意味を考え、時代に即した新たな年回法要のかたちを示す時期にきているのではないでしょうか。今の時代に求められる年回法要のあり方とは……
 国立歴史民俗博物館教授・新谷尚紀氏と、龍仙寺住職・清水勝美師に語っていただきました。


公的なものから私的なものへ
庶民に広がった法要の習慣


司会 最近、葬儀のあり方も含めて、年回法要のやり方、形式などがどんどん変わってきています。どういう背景、歴史の中で、この年回法要というのは生まれてきたものなのでしょうか。

新谷 いつごろから始まったのかということでは、現在分かっている範囲で言いますと、律令国家の形成にともなって国忌(こき)というものができました。これは天皇の命日です。天武天皇の命日を、奥さんの持統天皇が国忌として、国家を挙げて追悼をしました。仏教的な儀礼で、お寺で法要が行われました。
 このように律令国家の制度として、年回法要に似たものを執り行ってきました。平安時代になると、天皇の母親の命日を国忌にする、そういう傾向が起こってきます。そして、だんだん国家制度が緩んできて、中世以後は国忌はなくなります。そうしたものがプライベートな法要へとなってきたと考えられています。公的なものから私的な行事へと変わっていったわけです。
 『栄花物語』という貴族の生活を描いた作品では、初七日、七七日の法事、そして「御果て」という一周忌までを行っていることが記されています。三回忌、七回忌、三十三回忌は行っていません。これがいつ始まったのか、今のところ想像されているのは、鎌倉から室町時代以降です。

清水 なぜ七日ごとかと言いますと、インドから輪廻思想というものが入ってきたからです。死後四十九日までを「中有(ちゅうう)」、「中陰」と言います。四十九日までの間に、七日ごとにこの世から来世へ段階的に生まれ変わっていく、それが中陰です。それで七日、七日に供養を重ねるということなんです。
 その後、中国から儒教や道教の思想が入って来て、忠孝思想や地獄・極楽の考え方が定着してきました。そして鎌倉時代には、初七日から十三仏様をお祀りして、お守りいただくということで、十七回忌や二十三回忌が行われるようになったと考えられます。

司会 そうすると、天皇から貴族、そして一般庶民にまで年回法要の習慣が広がってきたのは、いつごろと考えたらいいでしょうか。

清水 江戸時代でしょうね。キリシタン弾圧で各寺の檀家制度が進むと共に、庶民の仏教として拡がったのです。

新谷 鎌倉以降の仏教というのは、どうしても儒学の影響を受けざるを得なかったんです。そこで何が起こったかと言いますと、忠孝の思想、親を大切にしましょう、という思想になりました。ですから、年回法要による先祖供養は仏教の教えではないかもしれない、と考えてみる必要があると思います。儒学と混合した仏教が、三回忌、七回忌、十三回忌というように、いろいろなものと混ざりあって、親孝行の仏教をつくり上げていった。これがどうも鎌倉・室町時代のことらしいのです。

司会 儒教が入っているんですね。

新谷 入っています。それが徹底してくるのが、江戸時代の檀家制度と寺子屋教育からです。

法事は心の相続の場
遺族が絆を深める行事


司会 法要の歴史的背景というものは分かりました。ところで、そうして日本全国に一律に広がった法要のやり方ですが、地域的な違いなどはあるのでしょうか。また、現在も変わりつつあるのではないでしょうか。

清水 農村・工業地帯・都市と全国の地域的な特色はありますが、お寺と檀家さんとの触れ合いが深まって、命日に行うというのは皆同じです。ただ、以前はお寺で行うことが多かったものですが、最近はホテルや料理屋で行うこともあり、自宅でこじんまり行うことも多くなりました。
 法事そのものも、威儀を調え、作法を身に付けるというのは曹洞宗の宗旨でもありますし、法事を行うことで心を調える「行」として受けとめることが大事なのでしょう。戦後、そのような意味合いが薄れ、高度成長社会でバブル経済にまで行きつき、物質豊かな生活に心の相続を忘れてしまいました。生活に心の相続を忘れてしまいました。「この程度にしておこう」「これくらいでいいじゃないか」という省略主義や、楽して得をしようという役得根性が蔓延し、行き着いた先が「マンネリ」です。マンネリは、本質を忘れてしまうことで起こるので、本質に立ち帰ることが必要だと思います。
 これからの法事というのは、亡くなった人・坊さん・お参りする人の三者が、仏教の教えを学ばせていただきながら、功徳を積む場にしなければならないと思うのです。位牌にお参りする時、その位牌に故人が重なって見えるのは、心の中に亡くなった人が生きているからです。だから私たち僧侶は、お参りする人々の心の中の故人に供養するという気持ちで、お経を誦まなければいけない。そうすることで皆が満足できる供養ができる。その供養がまた、自らの精進につながるのです。

新谷 民俗学では、死者への想像力がどれだけ豊かかということが、その社会がどれだけ文化の深みを持っているかを表している、と考えています。今おっしゃられたことを民俗学の立場から言うと、自分のためだけにやっているというのではなく、必ず家があって、父母がいて、家族があって、ということですね。かつては臨終を、「お迎えが来た」と言いました。お迎えが来たということは、一人で知らないところへ行くのではない。そして、送る側も、疎遠になっていた親族もみんな集まらなければいけない。葬儀というのは、死者を送る儀礼であると同時に、生きている側がお互いに絆を強め合う行事でもあるんですね。

崩れる家・村・寺の繋がり
子供達に伝えていくべきこと


新谷 かつての伝統的な社会では、家と近所の村、寺の三点セットが有効に機能していました。葬式の時には必ず村の人が世話をして、手伝いをしました。葬儀屋さんではなく村の人がやっていますから、葬儀はこうやるものだという一定のマニュアルがありました。年寄りも近所の人も、寺の和尚さんもみんな知っていた。そのマニュアルがあるから、死や葬儀に不安がなかったんですね。その、家、村、寺の三点セットが伝統的に機能したのが、江戸時代の檀家制度ができた頃から近代、現代の昭和三十年代までの時代でした。
 ところが今では、家、村が壊れてきました。どうして壊れたかというと、エネルギー革命、技術革新、それからモータライゼーションによる車社会が到来したからです。電気やガス、自動車などが何をもたらしたかというと、生活の個人化です。一人で何でもできるようになりました。人の世話にならなくてもよくなった。本当は人の世話になっているのだけれども、それが貨幣で処理できるから、過剰な生産と過剰な消費の中で、生活の個人化が起きました。するとどうなるかというと、伝統的な葬儀のマニュアルが機能しなくなります。ですから、今、新しいシステムを模索している。家と村が壊れてきているのに、従来のまま寺が残れるわけがないというのが、私どもの考えです

清水 そこにお寺がどう対応していくか、ということなんでしょうね。

新谷 それが重要なんです。

清水 法事は、「回想の心」と「自覚の心」と「和合の心」という、三つの心掛けが大事なのです。回想するというのは、亡くなった方を思い起こし、感謝報恩の行いをするということです。今ここに生かさせていただいている自らの命を見極めていく、そういう場でもあるわけです。自らの命の尊さを知ることですべてが尊く思え、相手を大切にします。周りを大事にします。環境も大切にします。自らの命の尊さを知ればすべてが尊く、感謝する気持ちになるでしょう。ですからその「気付きの場」なんですよ。和合の心というのは、みんな久しぶりにお逢いし、近況を語り合う、みんな仲良くしている姿が、亡くなった方が一番喜ぶことなのです。
 最近は葬儀でも法事でも、子供や孫を連れて来ないことも多くあります。「孫さん方どうしました」と聞くと、「遠いから」とか「学校に行ってる」とか、なんのためらいもなく言います。病院で亡くなって、看護師さんが手を尽くしてきれいにしてくださり、納棺も葬儀社が全部やってくれるわけで、遺族は何も手を下すことがありません。以前は、亡くなった方の身体を自分達で泣き泣き拭いたものですよね。今は感謝する心も薄くなっています。私はよく「足の裏一つでもいいから拭いてあげましょうよ」と言います。この足で自分達を育ててくれたんだと、感謝で胸が一杯になるものですよね。だから葬儀や法事には、是非子供を連れて来なくてはいけません。
 例えば出棺の時に、お棺が出されて、最後のお別れの時になります。この間、そういう場面がありました。お孫さんが六人いて、もう結婚して幸せに子供を抱いていた孫もいた。そうしたら、一人の母親がこう言ったんです。「あなたたち、おじいちゃんの顔の周りにたくさんお花を添えてあげなさい。さよならって言って、頬をなでてあげなさい」と。この一言が素晴らしいね。この孫達は、「おじいちゃん、ありがとう」と言って、顔をなでたり、額をなでたりして、おいおい泣いているんです。この涙が大事なんですね。手の先から伝わった冷たさは一生忘れないでしょう。
 私は、自分で寺を建てたとき、生きた寺づくりにはどうするか考えたものでした。『修証義』というお経は、非常に親しみやすいわけです。通夜や法事には全員にお経の本を配って、中学生や高校生の子供達がいると「ぜひ声を出して読もうね」と、わざわざ子供達に声をかけるんです。

新谷 子供にそうやっていくことが、一番重要なんですよね。かつての権威ある寺は、敷居が高い研究所でした。だから、お寺はそういうきちんとした研究機関、情報発信基地か、あるいは、村の寺みたいに、子供達に遊びに来させる、小さい頃からお寺になじませるような習慣をつくる寺か、を選択していかなければいけないんです。

清水 法事を通じて、和合の中に自分を前向きにしていく、そういう場をつくっていくようにしなければならない。今、マンネリ世相に坊さん方も意識改革を本当に求められていると思う。ただお経を唱えて、それで終わるのではなく、法話一つが非常に大事です。法話も供養のひとときなのですよ。そして、行事も分かりやすくしなければならない。葬儀の十六条の仏戒も訓読で行うとか、香語を分かりやすくするとか、一緒に仏道精進の場ととらえると、素晴らしい供養・回向になるものと思います。

継承されていくもの
生きている人達のためのお寺


清水 伝統ある商品であっても、例えば京都で数百年続いた老舗のお菓子が伝統のお菓子として続いていても、その時代その時代に合った味付けを少しずつ研究して加味しながら、伝統の味を守って、今なお喜ばれてここにあると思うんです。われわれも同じように、伝統の中で、檀信徒が何を望んでいるか見極めなければならないでしょう。法事そのものも、そうした気付きの場だと思うんですよ。
 私は昨年、岡山県を布教で廻ったんです。その時に、送り迎えしてくれる車の窓から眺めていると、山裾に太い竹が群生している林がありました。北海道には太い竹はないですから、「ああ、あんな竹がうちの境内にも少しあると、見栄えがするなあ」、そんな思いで見ていたんです。竹はとても美しい、細工しても丈夫で美しい、それは「節」があるからなんですよね。
 私は、年回法要が何回もやってくるというのは、この竹と同じように、人生の節をつくる場、気付きの場を、亡くなった方が残していってくれていると、そうとらえていくべきだと思うんです。それがなかったら、人生がのっぺらぼうなんですよ。本来、物事の目に見えないものほど大事にしていかなくてはいけない。そんな心掛けがあると、目に見えるものはもっと大事にできるじゃないですか。
 だから、今の時代は、各お寺はオリジナリティーを持たなければいけないと、私はよく言うんです。うちの寺は坐禅会に力を入れているとか、写経の会とか、テレホン法話を一生懸命続けているとか……。何か特長を持ってこそ、生きた魅力ある寺じゃないですか。

新谷 私どもから見ると、お寺というのはものすごく大きな文化財ですから。その文化財というものを継承していかれる各住職代々が続いていれば、それこそ日本の「家」が壊れても、お寺の住職の家系と言いますか、その寺という一つの流れは絶えませんよね。つまり何が家を壊しているかというと、継承者が継承すべきものがない、ということなんです。継承すべき職業がない、継承すべき田んぼがない。だから「家」は分散しているんです。その中で、お寺とか神社とか、そういう伝統的なものは、基本の形が残る。それは養子でもいいわけです。養子のない家の相続は歴史的にもなかったように。そういう、一定の組織を継承していくという力には、ものすごく大きいものがあります。それを、先程おっしゃいましたように、時代のニーズに応じたそれぞれの世代の住職さんが、そのニーズにこたえる研鑽を積むという形であれば、多くの人は付いていくと思います。

清水 そうですね。人生相談とか、寺報を出したり、いろいろあると思う。そういう生きている人々が集うお寺づくりを、これからはやっていかないと、死んだ寺になってしまう。生きた寺づくりは、坊さんの意識改革からですね。

(平成十五年十二月五日収録)

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