読者からの質問に答える(2)

色即是空、空即是色というのは どういう意味?

『般若心経』の中に出てくる「色即是空、空即是色」ということばを耳にされたことのある人は多いことでしょう。でも、その意味は難解でよく分かりません。今回は質問をお寄せくださった読者の東京都永谷さんに同席していただき、筑波大学名誉教授・曹洞宗天徳院住職の大藪正哉先生に解説していただきました。


大藪正哉
1932年東京都生まれ。東京教育大学卒業。東京教育大学助教授、筑波大学教授を務め、現職。


木も草も犬も猫も人間もみな「色」

編集部
 「英雄色を好む」とか、「色気より食い気」といったことばもあるとおり、一般に「色」ということばには何か性的なニュアンスがあります。そこから、色即是空というのは「色事は空(むな)しい」という意味だと思っている方も多いようですが。

大藪 そうではありません。この「色」というのは、もとのサンスクリット語ではルーパといって、目に見えるもの、形づくられたものという意味です。木も草も犬も猫も人間もすべて「色」です。そして、この「色」は、お釈迦様が「諸法無我」「諸行無常」とおっしゃったように、実体としてあるものではなく時々刻々と変化しています。たとえば私は今みなさんの目に見えていますね。これは「色」です。みなさんは、目に見えるものはそこにあると思っている。しかし、この私という存在はどういうものかというと、両親があって生まれてきて、それから毎日呼吸をし、水を飲み、食事をしてこうやって生きている。絶えず新陳代謝をしているわけで、今日の私は昨日の私ではないし、今日の私は明日の私ではない。そのように「色」には不変の実体はないのですから、それはすなわち「空(くう)」だということです。

「空」というのはどういう意味?

読者
 「空」というのはどういう意味ですか?

大藪 これもよく誤解されているのですが、「空」というのは、空っぽとか、何もないという意味ではありません。たとえば、ここに柿の木が一本ある。秋には実がなる。しかし実がなるためにはまず地球があって、柿の木が大地にしっかりと根を張っていなければならない。その土には水分、栄養分がいる。さらに太陽が照って葉に光が当たらないといけない。もちろん空気もいる。そのように柿の実というものは、そのものだけでは存在しません。周りのものすべてのなかでの一つの表現としてそこにあるわけです。それは柿の実だけではなく、あらゆるものに当てはまります。すべてのものが網の目のようにお互いに関係しあって存在していて、単独に存在するものはない。ですから、すべてのものは根本的には一つであるということです。一つ二つの一つではなくて全部を一つと表現することにしていて、それを「空」というのです。ちょっと考えてみていただきたいのですが、時間的にさかのぼって考えれば、この宇宙は何百億年という昔、ビッグバンという大爆発によって生じたといわれています。本当のことはよく分かりませんが、爆発し宇宙が拡散していく過程で、冷えて物質が生じ、太陽も地球もでき、ついには人間のような生命をも生み出したといわれています。ですから、もとを正せば、宇宙に存在するものはすべて目に見えないエネルギーのさまざまな表現形態だということになります。そのエネルギーがすなわち「空」であり、その「空」から生み出され、形に表れたものが「色」です。

「色即是空」と「空即是色」の違い

大藪 お尋ねしますが、あなたは人間は死んだらどうなると思いますか?

読者 土に帰るのではないでしょうか?

大藪 禅では「父母未生以前の消息」ということがあります。あなたのお父さんもお母さんもまだ生まれていなかったとき、あなたはどこにいたのかという問いです。もう、お分かりでしょうが、今「色」としてこの世界に表れているあなたも、もとは「空」の世界にいたわけです。ですから、死ねばまたもとの「空」の世界に帰っていく。決して無くなったわけではない。「空」というのは、目に見えない常に変転してやまないエネルギーですから、そこから再び「色」が生じる。

編集部 色即是空のあとに空即是色と同じようなことばがおかれているのは?

大藪 それはですね、前半の色即是空というのは、私たちを含め目に見えるものはみな、もとは同じ「空」という世界から生まれたのだということです。しかし、それを理解しただけでは片手落ちです。現実には、ごぼうとニンジンは違うし、桜の花とバラの花は違う。猿と人間は違うし、人間も一人一人違っています。それをすべて同じだと言ったら区別がつきませんし、私のものはあなたのもの、あなたのものは私のもの、男も女も同じと言っていたら社会はなりたちません。ですから後半の空即是色というのは、「空」は必ず「色」というそれぞれ個別の様相を取ってこの世に表れる。もとは同じだが、現実に現れたものには、それぞれ区別がある。それを忘れないようにしなさいという意味もあります。それを忘れると、味噌もなんとかも一緒になってしまいます。

編集部 なるほど、この色即是空と空即是色という対語は、禅問答を連想させますね。たとえば、「柳は緑、花は紅」というと、そんなことは当たり前ではないかと思いますが、その前に「柳は緑にあらず、花は紅にあらず」という「空」の見方が省略されている。常識を超えた「空」の世界から再び現実の「色」の世界に戻るところに仏教、とくに禅の妙味があるように思います。

『般若心経』は一切の苦しみを除く

大藪 そうですね。仏教はあくまで、生きている人間を苦と災厄から救うための教えですから、現実に即していなければなりません。そもそもどうして『般若心経』というお経が説かれたかというと、冒頭に「観自在菩 行深般若波羅蜜多時 照見五薀皆空度一切苦厄」(一切の苦と厄を度す)とあるように、人々を苦しみや災厄から救うためです。そこで、一切は「空」だということが分かれば、人間は一切の苦しみから救われると説かれているのです。

編集部 そうするとお聞きしたいのですが、人間は生きている間は、「色」として存在しているわけですから、たとえばガンの末期症状で苦しんでいる人に対して、あなたはもともと「空」なのだから、それを悟れば苦痛も消えると言えるのでしょうか?

大藪 現実には、苦痛はすぐには消えないと思いますが、永遠につづく苦しみというのは存在しないということです。

読者 理屈では分かるような気がしますが、実感としてはよく分かりません。

大藪 それを分かるためには、自分の心の中に分かりたいという思いの種を蒔いて、その芽を育てる必要があります。それにはやはり坐禅とか念仏の修行をしなければいけませんから、どうしても時間がかかりますね。本当は病気にならないように、無理のない自然の法則にのっとった生活をするようにつとめることが大切だということです。

お唱えをして「色即是空」を悟る

読者
 それでも、病気になってしまったら?

大藪 『般若心経』の最後に、「羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 婆訶」という文句がありますね。難しいことは分からなくても、この文句を唱えさえすれば一切の苦しみから救われると『般若心経』には書かれています。この最後の文句はいわゆる「真言(しんごん)」ですから、漢文には訳されず、当時のインドの言語を漢字で音写したわけです。

編集部 日本でも「言霊(ことだま)」といって、ことばそのものに霊力が具わっているという考え方がありますが、それに近いものでしょうか?

大藪 そうですね。私はこの「羯諦羯諦」を唱えて病気を治した人をたくさん知っています。私自身は、魚の目ができて困っていたとき、こう唱えたんです。「よくなる。よくなる。治ります。必ずよくなる。治ります」と。これを百日間唱えたら、魚の目がぽろっと取れました。自分でもびっくりしてしまいました。「羯諦羯諦」でもいいし、ほかのお唱言でもとにかく毎日、何遍も何遍も唱えることが大事ですね。そうやって宇宙のリズムと自分の体のリズムを合わせていくわけです。近頃私は、毎日毎朝お唱えしております。「おかげさまです。元気です。きょうもニコニコありがとう」と。そしてその後、「何となく心爽やか、ありがとう」と唱えております。何だかよく分からないけれど、毎日毎日、繰り返し繰り返しお唱えをしていると、何となく爽やかな気分になってきます。そうすると、ああ、これが「色即是空」なのかなと、……そういう気持ちになってきます。どうぞお試し下さい。

(平成十六年二月二十六日天徳院にて)



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