道元さまの思い出(18)
山を愛する愛
――道元禅師の場合と寂円の場合
歴史ルポライター 深見六彦

道元禅師が亡くなっても、寂円は思うところあってすぐには山を下りなかった。その思うところとは、道元さまと同じ歳になるまで七年間、何があろうと永平寺に留まり、道元さまの供養をしよう――ただそれだけのことであった。そうすることによって永平寺とのしがらみを断ち切り、残された歳月を自分だけの修行に費やしたい、寂円はそう心に決めたのである。やがて寂円は永平寺を後にするが、故郷の中国には帰らなかった。祖国がモンゴル帝国に侵略されるという風雲急を告げる事態だったせいかもしれないが、永平寺よりさらに山奥深く分け入り、寝食を惜しむかのように十八年にわたる岩の上での坐禅修行に打ち込むのである。
そんな寂円が臨終の際に弟子の義雲に、「ああ、大宋国に帰りたい」と言い残したと『宝慶由緒記』にある。寂円は中国に帰らなかったことを最後の最後に悔やんだのであろうか。いや、そうではあるまい。モンゴルに完膚無きまでに叩きのめされて遊牧民国家の元が誕生したことへの失望と、文化の華が咲き誇っていたあの宋国滅亡への悔しさから出た、痛恨の言葉だったに違いない。元寇から百八十年後に書かれた『宝慶由緒記』ではあるが、蒙古襲来の記憶は寂円の臨終の言葉としてしっかりインプットされていた。
愛すべき宋国よ、もう一度復活してくれないか。望郷の念に駆られながらも、銀杏峰の山懐に抱かれるように一生を終えた寂円であったが、道元禅師の場合は少し趣きが異なる。
道元禅師は病状が悪化した建長五(一二五三)年七月、永平寺二世を懐奘に譲った。『正法眼蔵』百巻という構想実現を目前にした発病は、禅師にとって無念であったに違いない。この病状については諸説あるが、いずれにしろ自らを厳しく律する永平寺での修行生活に体力がついていけなくなったのである。八月五日、禅師は病気療養のため弟子たちと伴に京都へ向かう。もちろんかなりの重篤であるから歩けるわけはなく、輿に乗せられ木ノ芽峠から琵琶湖上を辿り上洛したと思われる。
ここで筆者が疑問に思うのは、なぜ道元禅師は重い病をおしてまで京へ向かったのか、ということである。ご自身の希望だったのか、誰かの指図によるものだったのか。真相は不明だが、道元禅師のそれまでの生き方からみて、本人の願いによるものでないことは明らかである。鎌倉から帰った直後、半年間にわたり永平寺の留守を預かっていた弟子たちに、禅師はこう言っている。「今日、帰山してみると雲に喜ぶ気配を感じる。山を愛する想いは以前よりはなはだしく大きくなった」と。自分の最期を予感した禅師は愛する永平寺の大自然に抱かれて天寿を全うしたいと思っていたに違いない。しかし事態は思わぬ方向へと動く。
寂円でございます。
高熱のため意識が混濁している道元さまを何が何でも京へ連れ戻し、名医たちに治療させるのだという波多野さまの強いご意志でございました。比叡山との確執があって止むを得ず越の国に道元さまを招いた波多野さまとしては、今一度道元さまに京で復活していただきたいという執念が、有無を言わせぬこうした行動に走らせたのでございましょう。山の者たちは自らの手で看病し、病気治癒を成就させたいと考えておりましたが、それもならず京への強行軍となった次第でございます。
京都に到着した道元禅師は、高辻西の洞院にあった俗弟子覚念の屋敷に入った。八月中旬のことである。それからわずか2週間しか経たない八月二十八日午前四時ころ、道元禅師はご入寂される。五十四年のご生涯であった。京都行きは禅師にとっていったい何だったのであろうか。
(以下次号)