仏教本来の姿を取り戻せ
雨洗風磨 広島県 五十六歳
僧侶は葬儀や法事の時に、読経する事よりも、仏陀のすばらしい教えを説く事こそ、僧侶に求められる道ではないでしょうか? 僧侶は葬儀の時に、絢爛豪華な衣を纏い、恭しく読経する姿を見ていると、なんと人騙しも甚しい事か、といつも思います。仏陀の本来の教えは、生きている人々に対する教えを経にしたものであって、死者を弔うための経ではない筈です。葬儀は、死者に生前直接かかわりの有った有縁の人々が、死者の霊に対いて、敬意や親愛や惜別の念を、限りなく表現して弔う事が、死者への最も相応しい儀式ではないでしょうか?
日本で現在行われている、仏教徒の葬儀の形は、僧侶や葬儀屋や花屋(造花も含む)などを喜悦させる、商業色に片寄り過ぎた儀式になって、しめやかに黄泉へ送るべき儀式とは、程遠い形になっているのではないでしょうか? 又僧侶も宗派によっては、死者の前世又は来世の事を、予言者や占師の如く説いたり、知らない事や見てもない事を、さも知っていた事の様に語り説いて、参列者に不安や、ナンセンスな心を抱かせる僧侶もいる様ですが、この様な事は、仏教という宗教から大きく逸脱していると思います。僧侶は、死者に経を手向けたり、法事をする事が仏教本来の姿では、決してない事を、日本中の仏教の宗教家が反省し、本来の仏教の教えの道に戻るべきではないでしょうか?
戒名や法名よりも親に付けていただいた、立派な名前を重んずる様に説いて聞かせるのが本筋であり、僧侶がお金儲けのために、死者に名を送る事も止めてもらいたいものです。死者が生前に自分の葬儀を、人に伝え残せる風習が、もっともっと大きな輪になる事も望んで止みません。
いずれにせよ生者が死者を送る儀式は、お金や品物や片書など一切関係なく、生れて来た時の様に、純真無垢な姿で送れる様に指導する事が、僧侶の勤めではないでしょうか。親鸞の様に修業する事を怠り、女にうつつを抜かす様な僧侶が、世に憚る様になって宗派を広げる様になってから、僧侶としてあるべき姿が崩れ、ホスピタル精神も、正しい倫理観も、一般的常識も形を変えた様に思えてなりません。僧侶が巾広く国民に敬われる姿になれる様に修業して、教えを施される様になれば、葬送の形も尊厳に満ちた儀式を営む事が出来るのではないでしょうか?
いずれにせよ、先にも述べた様に、葬儀は、有縁の人々が死者についての想い出を思いの限り尽くして、惜しみ別れる儀式でありたいのに、御布施や葬儀料を心配せねば営めない式の形であってはならないと思います。繰返しになりますが、葬儀には必ずしも僧侶など呼ばずに行う事の方が、仏道に叶う儀式である事を国民に、僧侶自から指導すべきであると思います。