希薄な僧侶の存在感

森 昭源 三重県 六十四歳

 お寺に対する関心はかなり高いように思う。由緒のあるお寺のたたずまいは心にしみるし、由緒は無くても広い境内があるだけで心が広がり、俗塵を離れた楽しみを実感することができる。しかし、その主であるはずの僧侶の姿はお寺という施設の影になって見えてこない。人々の関心はお寺の観光的な面であり、信仰に絡むにしても現世利益と関わりが深い霊場巡りという範囲であり、僧侶との結びつきでお寺を見ていない。

 人々と僧侶は、普段の状況の中では殆ど無関係といってよい。葬儀の時点で心理的に初対面に近い状態で僧侶と接することになる。人々は僧侶のことを知らないし、僧侶も死者のことや縁者のことを熟知してはいない。このような人間関係の中では、僧侶の存在感はかなり希薄なもので、その存在感の薄さがそのまま葬儀の場面に反映してくる。

 親密な関係ができていないのは僧侶だけの責任ではない。しかし、僧侶がお寺に閉じこもっていて、お寺へ人々を寄せつけない雰囲気がある。さらに、僧侶には檀家を行脚する行動力に乏しい。元々お寺は地域のコミュニティーセンターの役割を果していたし、住民の相談役でもあった。人々と僧侶の結びつきは深かった。現在でも住職にやる気があればその機能は果たせるはずであり、活動を通じて地域住民との良好な人間関係を構築していくことは十分可能だと思う。

 最近の葬儀の主役はセレモニーセンターである。その中での僧侶の立場は曖昧で、商魂たくましいセレモニーセンターにとって都合の良い枠組みの中での一員に組み込まれて、僧侶の主体性が欠けたまま葬儀が執行されているような印象を受ける。

 これで本当に成仏できるのだろうか。死者の魂は不安だろうし、告別の儀式を託す縁者たちの心も癒されない。僧侶のやる気の無さ、投げやりな気持ちが感じられてならない。このような状況の最大の背景は、普段からの僧侶と檀家との心の結びつきの希薄さにあることは確実で、このことは、あぶない新興宗教に乗じられる隙を与えることにもつながっていくような気がしてならない。

 普段から敬愛している僧侶に送られてこの世を去りたいと、多くの人たちは願っていると思う。少なくとも私の葬儀は、次のようにしてもらおうと思っている。

 @私には幸いなことに、友人の一人に僧侶がいる。先祖からの宗派でないが、宗派に関係なく、私のことを良く知っている友人に託そうと思う。その方が安心してこの世に決別できそうである。
 A葬儀はお寺でしてもらうつもりだ。セレモニーセンターのレールに乗って葬られたくはない。あくまでも仏の代理人としての僧侶の主体性に委ね、その本拠地で成仏したい。


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