救いから離れすぎてしまった葬儀 大きい文字で見る
木村恵子 北海道
H10年10月に親類の葬儀があり、その時に宗派の違う者が居合わせましたが一同が首を傾げてしまう出来事がございました。仮通夜にいらしたお坊様は亡くなられた方を尻目にご仏壇へ向かって読経されお帰りになられました。この様子を目の当りにして亡くなられてしまわれた方がお気の毒でなりませんでした。せめても亡くなられた方に対して手向けられるのが礼儀なのではと感じられましたし、お坊様が仰がれるご尊像様へ救いを願われるのはお坊様ご自身の魂の昇華を通されて行じさせて頂く本職であり、それにより私共へ救いのみ手を差し出して下さる方と私は感じておりましたが、いきなりご尊像を祀られているご仏壇へ読教で驚いてしまいました。
いつも不思議に感じております事がございます。友人、知人宅へお伺いさせて頂きますと、私はご仏壇のありますご家庭では、先ずそこのお宅のご先祖様に「本日のお伺いをさせて頂き有難度う御座居ます」とご挨拶をさせて頂いておりますが、ご仏壇内にはご尊像様を祀られております。ご先祖様はどちらに? とお聞きしますと過去帳に記してありますと、平な一枚の紙面上のお姿に肉体が無くなったら平べったい世界にいらっしゃっているのですか、と問いかけたくなってしまいます。拝め祀らせて頂くご尊像様と仏に昇華されたご先祖様が雑然と混同されている気がしてなりません。ご先祖様より位の低い私達でさえ自分達の住まいがあり、又お参りさせて頂くお寺と別に分けられているのにと想います。もしご尊像を拝めご先祖様のご供養もさせて頂くのならご仏壇が2つは必要になるのが当然な気が致しますが、又その為にお寺がありお坊様は仲立ち役をなされる素晴らしいお役を戴かれていらっしゃる方と私は認識させて頂いております。もし人間は皆、死後はみ仏とご一緒にいらっしゃると言われて、四六時中ご一緒なら汚ない私は恐縮して居たたまれないと考えてしまいます。
又、本来ならこんなにゴタゴタして来てしまっている今日ですから、真の救い導かれるのが宗教ではないかと想います。余りにも各宗派による形式にとらわれ、何の認識も持たない方々にそれも葬儀と言う一番感情の起伏の大きな時に見せられ弱身につけ込まれるかの様な戒名料と、あまりにも救いから離れ過ぎてしまっている気がしてなりません。むしろこの葬儀の大切な時こそ、奉仕のみ意(こころ)で接し、暖かくその後も永くお導き下さるべき事ではないでしょうか。又現代の私達にも納得させて頂けるきまり事が少ない様な気が致します。今一度仏教の広められた理由/時代を顧み、現在と比較し、子孫の私達がご先祖様に対して心から感謝を感じ毎日ご一緒に暮らさせて頂いていると泌々感じさせて頂ける様なお導きをお願い申し上げたいと存じます。
(私はご先祖様に導かれ或出会いが許され厳として存在する目に見えない世界からの仕組みが、現代の私達の生活に反映されていると言う事を実感させて載いている者でございます。同じ世界に生かされている一人として、お一人でも多くの方々が幸せになられます様念じつつ、皆様のご活躍を心からご期待申し上げさせて戴きます。真に有難度う御座居ました。)