現代に即した説教の研究を  大きい文字で見る

木村義正 山口県 八十八歳

 帯祝から誕生儀式に続いて年忌墓碑の建立まで儀式は沢山ありますが、何れも当事者主体人格家柄(自他共に認めるもの)と慣習を重んずることが要求されると思います。ここに葬式費用についての実例を一つ。当人が生前に遺族の負担を軽くするため祭壇を別に設けず、内仏様で質素に等気持を友人に託して居られ、友人は其の旨を伝えたが、それは有り難い御ことばだけど当家としてその遺家族としておことば通りにするのは世間が許しませんと、当事者主体の立派な葬式が行われました。これを常識と云うでしょう。見栄を張る人、殊更に質素な人、そして通常の人夫々の世の中進歩に伴れて数多の考えを参考にしながら、強いて慣習にこだわらず徐に改善するのがよいと思います。勿論喪主補佐する者の不動の意志と、後悔せぬ葬式であることが大切です。
 其の他凡ての行事についても殊更意見はありませんが、思うに法規でもなく強制でも強要でもない風習行事故程々(身分相応)に而して丁寧に施行することが肝要と思います。次は僧の振る舞いについて一云。
 何も為し得ぬ凡夫を救うために成就した誓願絶対他力本願自力無効大乗仏教を丸呑みして、浄土真宗のみが衆生を救度する唯一無二の優れた教えと信じることはよいけれど、宗派の護持と自己保身に暗れる真宗僧を裁く、そして奮起を促す信心を獲得するに知識は要らない。知識が有ると却って邪魔になると云うたのは昔のこと、今は凡夫も学問して僧と凡夫との較差が接近したので、立派な教えだと何時までも同じ文句のくり返しでは時代後れする。稀に一人の怠慢僧が居るとそれが全体を損うことをおそれる。
兎角勉強不足を棚に上げて人には屁理屈を捏ねるなど、僧衣を笠に着て自己の屁理屈を理屈にする僧も居る。人を見る眼ばかり光って自己を観る心眼の汚れた僧なきにしもあらず。又曰く、布施に惜しみがつくと布施にならぬ、思いきりよく喜んで施せ迄はよいけれど、喜捨を教える際に差出す者は奮発してもそれを受取者は不足に感じるのが常と知れなど説教する僧も居る。
 説明不充分で聴問する人を迷わす。迷うのは知識がないからそれで凡夫と云うのなど云わないで、凡夫が理解する説教を研究して貰いたい。祈りも苦行も修行も要らない。
 一般大衆向の浄土真宗修行は自力で真宗信者の実践すべきにあらずと呑気に遇す稀にみる僧と、何もわからずそれを裁く迷える筆者の早期開眼を切望して筆を擱く。

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