葬儀は相互懺悔の儀式  大きい文字で見る

志比明信 福井県 七十九歳

 私達は一人では生活出来ません。人と人との間柄で生活しておりますので人間といいます。今生きておりますので、眼には目糞が出るように鼻口耳大小便の九口に糞が出ます。全く九の穴の口をもっております。そして生れて来た私達は母の体内で育てられ、両親の愛育に依って生活出来る力を養育されます。義務教育に依って、不本意な処に親の写真が落ちておったら必ず通り過ぎることが出来ません。必ず拾い上げてしかるべき處に安置するものです。大衆の通る道に落ちていれば見過すことは不可能です。意に解せずの人は出来ませんのが葬儀式です。即人間です。これで葬儀する総てを理解します。葬儀とは眷族の別離の儀式です。永遠の別離の儀式には一つ根本的な意識がある筈です。この意識が色々あります。一人毎に相異は当然です。告別式に相異が生まれます。親鸞の教を信ずるものは全国同じ儀式で告別式を執行いたします。棺桶に納められた人と対面する時、納められた人と私とは合掌に依る作法を行います。これを仏語では仏々相念といいます。合掌の心は念々称名常懺悔と訓えられておりますし、親鸞教徒総ての心情でもあります。
 身近な処で一例です。人は総て強欲張見栄張意地張で具性機の三張りです。生まれながら三張の中に生活せねばならない。生まれた処は阿修羅界です。競争の世間です。うっかり、ぼんやりしていては負けます。追い越されます。油断出来ません。裸で生まれ衣食住求めてやみません。生涯やっさもっさの一生涯です。求めてやみません。強欲の果てはありません。更に私意識に随って枠をはめねばなりません。其枠はめの力が宗教であります。そこで棺桶に納められた親は、生涯の欲張で蓄えた総てを捨てて眷族へ親として何も出来得なかった事をカタビラ一枚になって合掌して侘び寝の姿です。其の納められた棺の前に進んで合掌と共に焼香して、何を申します、私こそは折角強縁によって子として生れ無条件に養育たまわって只今永遠の別離の式になりました、誠に有難うございます、生涯の御苦労を思うともっともっと盛大にすべき処を簡略させて頂きます、誠に御苦労かけて申訳ありませんと、互に懺悔する式が葬式です。拝むものと拝まれるものとの相互懺悔の儀式が葬式の根底に溢れるに情です。葬式に参加するもの総てが何かと御縁のある方達ですから、一人も残らず棺前に出向いて合掌焼香すべきです。
 葬儀とは亡き人と我との相互礼拝の場です。これで生涯の業縁がなくなり、亡き人は仏に召されて姿姿の縁が切れて成仏出来ます。生きている人は亡くなった人との縁が一切切れましたので、亡き人との間に生れた悪を断ち切ったので、其後の悪かった事を忘れさるのが当然です。葬式後は明るい思い出だけを思い出して感謝するのみです。暗い事は総て忘れ去ることです。人間は親子の縁。性別。国。親族。師弟。地域。名前。場処。大切なものが自分で選ぶことは出来ません。特に義務教育中の先生対生徒は注意すべきです。葬式に際しては其の導師は親鸞教では誰彼選びません。亡くなった人と送る親族の間で定めることです。


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