心をこめて供養することが大切 大きい文字で見る
森本豊成 兵庫県 六十八歳
人の死と葬儀についていつも考えている。功成り名遂ぐ世間に認められた人は、それなりのお別れの仕方ということで立派な葬儀をされるが、それはまあ納得できる。企業としてもほっておくことはできないのであろう。それでも本人の意思により密葬を家族だけで済まして、後日新めて告別式をしないという方も見受けられる。
私の場合は密葬であることを妻にも息子にも云ってある。三男は車で五時間程のところに単身ふ任しているので、事情が悪ければ帰ってこなくてよいと言ってある。連絡はするからそちらで線香一本たいてくれ、要は心である。危篤状態になったからと10年以上も音沙汰の無かった者が駆けつける、家族としたらもう少し元気な時にハガキ一枚でも尋ねてくれなかったのかと不信に思うものだ。空々しい限りである。大げさに寝棺をかつぎ出して、式が終ればはいそれまでよ、が一般的ではないだろうか。話が横にそれたようだけれど、本人は密葬を望んでも、後に残る家族の特に妻の想い次第だと思う。戒名にしてしかり、孫の代になれば位牌もお寺に預けてしまっている。
立派な葬儀も戒名も死者には何の喜ばしいものでない、ということは翌日からの後々の家族の供養が無いに等しい現状だからである。死に去りゆく者が後に残りし人にわずらわしい思いをさせてはいけない、その通りだと思っている。
お坊さんへの布施は、お坊さんが多い少いと騒ぎたてる筋合いのものではない。あくまでも布施する人の気持ち次第だからである。大きな寺だから、位のある僧だからと、外車を乗り回すのも考えもの、貧者の布施で自分たちが生活できてるのを忘れてはいけないとも思う。
僧の読経について、告別式に参列してマイクがあるのに声が聞こえてこないような読み方をしている。月詣りなら少しは余裕(時間的)もあってゆっくりとお経をあげてくれるが、彼岸とかお盆は立板に水を流すよう、有難みのかけらも感じられない。超多忙の事情は分ってる、短い一巻のお経でよいからゆっくりと心をこめて読経してほしい。僧がお経を読むのは亡き人達への供養と、供養する人達に満足感を与えるのが目的ではないか。一字一句を語りかけるように読んでもらってこそ、お経の有難味が伝ってくる。百巻のお経でも、立て板に水や、老人の一人ごとのようではもうやめてと言いたくなるし、次回からは断りたい気持ちになる。坊ず丸もうけと言われないよう、値うちのある読経の仕方を工夫してほしい。
新しく仏壇を買い替えて開眼供養に念のこもった丁重なお経をあげてもらって、ものすごく感動したことがあった。その息子が親のかわりに七回忌の法要をお願いしたら、立て板に水式で、坊さんが帰った後で自分でお経をあげ直したこともある。老若を問ず演技演出といったような仕草も心得の一つではないだろうか、お寺の坊さんという役柄を忘れると私利私欲にはしったり、檀家や信徒をお粗末にするようになる。葬儀は密葬、戒名は不用、後に残った者が終生心こめて線香とお経をあげ供養することが一番。