葬式は作法より気持ち
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村田徳治 高知県 四十二歳
私は、仏教の関係者でもなければ、なにかの宗教を信仰しているわけでもない、無宗教、無信仰の人間といえると思います。ただ、以前宗教がどんなものか知りたくて、いろいろ本を買ってきて読んだことはあります。
さて、現在の葬式についてですが、仏教というのは、本来、葬式のためにあるものではなく、生きているものに対して「どう生きるべきか」を説いた教えのはずです。
ところが、実際は、死んだ者に向かって意味のわからないお経を永遠と述べ、聞いているほうも、「今日のお経は長かった」などと愚痴を言いながらも、「これで自分にはバチが当たらない」などと思いこんで安心している始末です。たしかに、意味のわからないお経は、なにかの霊的な効力のある呪文として思っていることで、安心するのであれば、これも宗教として役目をはたしているのかもわかりません。
しかし、一方で「仏教の名を借りて、生活費を稼いでいるお坊さん」と見ている者もあることは事実です。今の仏教と葬式でも、これはこれでいいのかもしれませんが、本来の仏教のあり方ではないはずです。
話しは少し変わりますが最近、昔にはなかったような殺人事件やいじめなどが多くなっています。昔は勉強はそっちのけで遊んでいましたが、遊びを通して、道徳や組織、社会性を学び、相手の痛さというものを勉強していたと思います。
ところが、最近は塾ばかりに通わされ、算数や理科など記憶力だけの勉強をさせられた子供達が大人になってきています。さらに遊びといえばテレビゲームで主人公は、殺されてもまた生き返る、リセットすれば元に戻るといったものばかりです。これでは、道徳はおろか、最近のニュースを見ても人の命もどのように思っているのかさえ疑問に思ってしまいます。
最近のことですが、私は家族を連れて近くのバンガローへ泊まりにいきました。ここにはテーブルがなかったので管理者に聞いたところ、「大学生が借りたときテーブルの上に直接炭をおいて焼き肉をしようとしたため、テーブルを焼いてしまって使えなくなった」とのことでした。とても高度な公式は知っているようですが、生活に必要な知識はもっていないようです。「知っていなければならないことを知らず、知らなくてもいいことを知っている」これが、今の教育の結果のようです。こういう人たちが将来の日本を背負って行くかと思うと、日本はどうなってしまうのだろうと思ってしまいます。
今、まさしく必要なのは、仏教のような教えなのではないでしょうか、葬式という範囲の話しではなくなってしまいましたが、今急に、本来の仏教に戻ることは現実として無理かと思いますが、葬式などを通して、少しずつ本来のあり方に移行していくことが大切であろうと思います。
私の親なども葬儀へ出席すれば、「何とかは何回にしたらいいのか、何とかはどちら向けにすればいいのか」などと悩んでいます。葬式は「卒塔婆の向き」や「戒名」などにとらわれるのではなく、一番大切なのは「死んだ者に対して、どう思えばいいのか」そして「残された者がどう生きていけばいいのか」を教えることに少しずつ変えていくべきではないでしょうか。
たとえば、祭壇に向かって7割、親族に向かって3割からはじめて、親族にたいしては「今、すぐれたお経を唱えたから、残された者は安心していい」といったようなことを述べることからはじめることで、少しずつわからないように、本来の仏教のあり方に変えていくことができると思います。特に、子供を失った親などは、祭壇に向かってのお経より、親に対して安心できることをうまく説法することが大切であろうと思います。
最後に私の意見としてまとめると、「葬式の細かな作法は、どうでもよい。気持ちが大切である」ことをお坊さんが説くことに変えていくべきであろうと思います。
そして、私のような考えを持っているものも多数葬儀に出席していることも知っておいていただきたいと思います。今のままでは、日本というだけでなく、仏教の存在も危ないように思います