仏式葬儀に関する一考察  

梅津信行 北海道 七十一歳

 1、北海道における仏式葬儀の現況
 @お通夜
 通常、死亡しますと遺体を病院から自宅へ移送しますが、その時点で「葬儀や」を決めなければならず、どこの葬儀やにしたらいいのか分からないと、病院の看護婦(あらかじめ鼻薬をきかされている婦長か主任ら)が、葬儀やを紹介・斡旋してくれます。そして、この葬儀やが葬儀一切を取り仕切ってくれます。
 遺体を自宅なりに安置しますと、どこの寺の檀家か確認し、その寺院の僧侶に『枕経』をあげて貰います。
 前後して遺族の近所(通常町内会)や関連職場の代表が、遺族と相談しながら葬儀役員、葬儀の場所、葬儀日程、予算等を取り決めます。出棺日や死亡広告等の都合で、遺族だけで仮通夜をやって、次の晩に『お通夜』というのがオーソドクスなパターンです。
 『お通夜』は、導師入場、読経、焼香、法話、導師退場、葬儀委員長挨拶という順序で執行されます。所有時間は概ね一時間余りというところです。一般会葬者が帰ったあと、酒肴、夜食が準備され、遺族中心に霊前で故人を忍びながら、霊前の線香を絶やさぬよう朝まで起きています。(これは建前で遺族は看病疲れもあって布団が用意され交代で就寝します。お通夜用の線香もあって線香が燃え尽きるということはありません。)参列者は香典を持って来ますが、会葬お礼のハガキ、テレホンカード等の香典返し、お茶がわりにジュースを手渡しします。
 A葬儀、告別式
 火葬場の都合で葬儀の時間が決められますが、出棺の一時間前に葬儀が執行されます。『葬儀』は、宗派によって若干順序が違いますが、一般的に導師入場、読経、弔辞・弔電、焼香、導師退場、葬儀委員長挨拶という順序です。
 僧侶はお通夜の時は正座、葬儀のときは椅子、焼香もお通夜は自席に回し焼香で、葬儀の時は霊前に焼香台をおいて、司会者から焼香順を読み上げ、その順で焼香します。一般会葬者は、どちらかといえばお通夜に出席すると、つき合いの程度にもよりますが、葬儀には出席しないようです。
 B出棺・火葬
 出棺時には会葬者は葬儀会場前で見送りして、遺族だけで火葬場に行きます。火葬場の控室で遺骨を納めるまで、あらかじめ準備された弁当を戴きます。
 C繰り上げ法要
 遺骨が会場に戻ると、百ヵ日までの『繰り上げ法要』を、遺族、葬儀委員が参列して行います。読経・焼香後お膳を並べて会食(なおらい)をして、遺族から僧侶へのお布施、葬儀を手伝って戴いた葬儀役員にお礼をします。しかし、最近は殆ど折詰め料理、引出物はひとまとめにして手渡しして、会食を省略しています。

2、仏式葬儀についての疑義やささやかな意見
 @葬儀経費をもっと軽減できないか
 私が過去十年間約五、六十の葬儀の経験から、葬儀経費について慣習や見栄などから膨張し続けています。遺族の意志や故人の人徳、葬儀場所などから一概にはいえませんが、総経費は祭壇の約二倍というのがひとつの目安です。仮に祭壇が五十万としますと、僧侶のお布施、繰り上げ法要の費用も含めて最低でも約百五十万円は必要になります。それに見合う香典の収入がありますといいのですが、香典収入の最も多いのは、兄弟、親戚の数によります。昨今の少子化、核家族化によって減少傾向にありますので、期待するほど香典は集まりません。
 葬儀やさんからはあらかじめ見積書なるものが提出されますが、競合見積もりでないので内容を検査して、意見を挟む余地がありません。一番問題なのは、祭壇の程度をさっさと何も知らない遺族と事前に決めてしまうことです。
 次に、僧侶へのお布施、戒名(院号料)です。
 葬式仏教とまで言われている中で、お寺の最大の(唯一のとまでいいませんが)財源ですから、高いとか安いとか言うつもりはありませんが、寺の格式とか僧侶の地位等で金額がバラバラで、沢山葬式に関わってきましたから、葬儀費用という概念の枠外で考えられるよう、仏教界の自粛努力を望みたいものです。
 出ていくものはどんな名目であれ、お金なら費用に違いありませんが、『死』という人生の最後で最も大きな節目に当たって、信ずる心があったかなかったかは別にして、戒名を与えて仏の弟子として旅立たせる役割を演ずるのですから、真面目にやっていないとは言いませんが、一丁あがり≠ニいった雰囲気を感じ取るのは、私の宗教心がないのか、僧侶たちの努力が足りないのか、仏教ってそういうものなのか、考えさせられることが多いのは何故なのでしょうか。
 故人に本当に仏教に対する帰依する心があるのなら、お布施や戒名のお金は生前からお寺に納めておくべきで、そんなシステムが仏教界にないとしたら、葬儀の費用としてお寺は貰うべきではないと思います。宗派や寺院の格式等に多少の温度差はありますが、導師ほか何人参列するか、院号料はいくら以上でなければならないとか、仏につかえる僧侶が臆面もなく言い出すのはどうかと思います。
 税法上の優遇措置もありますし、健保でも労災でも葬祭料というのが認められ、葬儀にたいして昔から「何でもあり」の風習があって、仏教界もそれにあぐらをかいてきたきらいはあるのではないでしょうか。
 A法話(お説教)の内容はどうにかならないか。
 葬儀には法話がつきものとなっていますが(北海道のお通夜だけでしょうか)、延々と三十分からこ一時間も、故人の生前の行き方など関係なく、故人の冥福を祈り、遺族の悲しみを慰めるため会葬に来た人たちに対して、仏教とは何かと修行してきた寺で先輩僧から聞きかじったことを話しはじめます。
 経典の難解さは許せるとしても、法話と称して仏語を現代語に置き換えているようですが、私は何十回と、いろいろな僧から聞いておりますが、もう一度同じ僧侶から聞きたいと思ったことはありません。
 僧侶でない五木寛之や水上勉、草柳大蔵等の書いたものが共感を呼ぶのに、どうしてお経をあげる僧侶の言うことが難解なのか、僧侶にその努力が足りないのはなぜでしょうか。
 当地の某寺で、道場を設けて仏の念力で修行したり祈願したり病魔を追い払ったり、人生相談に応じたり、要介護福祉施設をその寺への浄財で運営しているところがあり、ひろく信者を集めています。葬儀は一切やらないところをみますと、葬儀が仏教を堕落させているとまでいいませんが、お説教くらい、会葬者の心をうつ話ができるよう精進して下さい。
 北海道は今雪としばれで厳しい冬を迎えます。皆子供の頃、寒修行姿の僧侶を沢山みかけましたが、最近では、キリスト系や新興宗教に真摯な信仰の姿や光景が見られます。
 B葬儀と告別式と友人葬
 かつて当地の仏教会では、「告別式」という言葉は使わないで「葬儀」で統一しようということを申し合わせたことがありましたが、最近ではどの宗派もうるさく言わなくなりました。
 「告別式」は、キリスト教や神道などの考え方だからという事なのですが、弔辞・弔電等が葬儀の中に入れるのはおかしいというなのでしょう。弔電が仏事となじまないということなのでしょうが、説教中に弔辞・弔電の時間をとるようになっていいことだと思いいます。
 次に創価学会の「友人葬」の葬儀委員長をやらされることがあります。宗派内の争いごとを、葬儀にまで持ち込んで大変醜いものです。仏教で戒名なくて成仏できるのかどうか死後の世界のことはわかりませんが、生きている者はそれでいいとして故人となった人は戒名というものがなくて、一体どこへ旅立って行くのでしょう。無宗教の葬儀があり、葬儀をしない人が増えている現況ですから、「何でもあり」でそれはそれでいいのでしょうが、幽明さかいを異にした故人はどうなるのでしょう。私がそんな心配などする必要はないのかも知れません。しかし、今の仏教会の努力のなさが窺えます。
 仏教に対する無知から大変失礼なことを並びたてましたが、平素多くの葬儀に関与してみて、北海道新聞の記事をみて書いて見ることにしました。私は町内会の会長をやっている関係で葬儀委員長をおおせつかります。当たり前なことですが、すべてボランティアで葬儀終了後挨拶にくる遺族は殆どありません。当たり前なことだと思っているのでしょう。「してやってる」という考え方にたったら、こんなばからしい仕事はありません。「させて貰っている」と思わなければやってられません。
 三つのキーワードに気がつきました。@人間って棺桶に入って始めてその人の死にさま(生きざま)が、棺桶を囲む人達から知ることができる。A死には順番が決まっていない。B人間ってなかなかケジメをつけて死ねないものだ。



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