客観的な料金設定を  大きい文字で見る

藤村達也 岩手県 六十三歳

 回転寿司と葬儀を横並びに比較するのは不謹慎だが、葬儀に金(かね)がかかり過ぎた事に対しての反発とも言える、従来のしきたりにこだわらない葬儀方法が叫ばれているのは、不明瞭な料金設定にあったからである。
 それは寿司屋が凋落し、回転寿司が台頭してきた事と同じである。
 金額とはどんなに高くても納得すれば支払うのだが、不明瞭な金額設定でおまけに僧侶の気分次第で、或いは遺族の資産の有無で戒名や様々の料金が異なる事に疑問を感じた人たちが、自分流の葬儀を企画する様になったのである。自分のふところに合わせた葬儀が出来ない事が不満の原因である。
 まして読経している僧侶にさえ意味の分からないお経を四十分以上もあげている。四人以上も弔辞をあげる人がいようものなら正座の時間は更に増える。正座する事もない最近の生活様式なのに、お寺で一時間以上も正座しているのは苦痛でしかない。訳の分からない像や鐘つき堂を建立するより、本堂を土足の椅子式にすると下足の世話も不要になる。まして葬儀の参列者には足腰の不自由な高齢者が多い。それにどこのお寺でも便所には気を遣っていない。ヒーターも無い便座、ろくに水も出ない水洗トイレ。金(かね)を取る事だけには気を遣っているが会葬者の事は考えていない。
 また、なまぐさ坊主も多い。実父のお逮夜(オタイヤ、岩手県では葬儀の前日の行事で通夜とは別)の時、招請した僧侶が読経中に眠ってしまった。理由は泥酔していたからである。別の寺では高級外車を乗り回し、葬儀は小坊主に任せてゴルフ三昧の僧侶もいる。
 お寺参りする人も激減した時代だが葬儀は寺の最大収入源な事は分かるが、死者を弔う事と平行して地域の様々な集会にも部屋を格安で貸し出したり、中学生の生身修業の場として夏休みに近くの学校と提携して部屋を貸したりするとかして、もっと住民に身近な存在とするべきである。つまり、求めるだけで与えないとの姿勢では企業も潰れる憂き目を被っている事でも分かる通り、寺とて同じである。地域住民に役立っていない寺は末路が見えていると言っても過言ではない。
 因習にしがみついている僧侶では多様化した現代からは取り残されるのみである。


戻る