今こそ布教の時  大きい文字で見る

川島 明 東京都 六十六歳

 何処の家庭でも人が死を迎えるとその死者を弔う葬儀を執り行う。そして現在の日本ではその殆どが仏式である。しかし此処で何時も疑問に思う事は、仏教徒である筈の人々の殆どが仏に対する心を知らず、只葬儀を行うが為の儀式として考え、僧侶を呼んで形式上に戒名を付けて貰い、読経の何であるかさえ判らないままに涙をし、僧侶も普通戒名で幾ら、院号がつくから幾らと金額を提示、遺族もそれに従って支払い通夜・告別式を終え、葬儀後の四十九日当たりに形通りの法事を済ませ納骨をすると再びお寺とは隔遠の状態に戻る事である。しかもキリスト生誕の日には口々に「メリークリスマス」などと声を掛け合いプレゼントを交換し、正月には揃って神社に初詣に向かい柏手を打って一年の無事を祈ったり、物事の節目にも神官の御祓いを受け深妙に鎮魂をする。しかし実際は先祖より受け継いだ菩提寺に墓を持ち最後はその墓で永遠の眠りにつくと言う、他から見れば何とも節操の無い宗教感覚でしかないのが一般的な姿である。それだけ平和であると言えばそれまでであるが、それでは余りにも情け無い。
 しかし、これは大いに僧侶側の責任でもあると思う。そもそも僧侶とは、お経と言う開祖の教えに身を正し修行を積み、少しでも檀家を含めた庶民の心を癒し明るく豊かな社会作りに貢献すべきなのに、何故か葬儀ビジネスに便乗した様な行動が目立ち過ぎる。勿論全ての僧侶がそうだとは言わないが、中には葬儀社にダイレクトメールで「何宗でもお引き受けします」とか「御用命の折りはお布施の何%をお返しします」と営業するに至っては「何をか言わんや」である。
 先般あるテレビで「戒名の値段」について特集を組んでいたが、その際お寺の収入源の大部分が葬儀での戒名料だと報じていた。確かにお寺そのものの存続には何らかの収入が無ければ成り立たないのはよく判るし、寺離れをしている現在では檀家との接点は葬儀しか無い様なので、お寺への帰依の有無に係わらず遺族の希望を叶えるが如くいい戒名をつけてそれなりのお布施を頂く。つまり本来の戒名の意味から外れた行為であると言い切るのは酷だろうか。
 これは一朝一夕に改まるものでは無いが、僧侶自らが襟を正し、平和ボケで乱れつつある社会に飛び込んで道理を説き、弱きを救い相談に乗るなど積極的に市井の人々と接し、現在あるを知らしめ祖先を敬う心を養う事こそ布教に通じ、ひいてはお寺に足を運ばせる事にもつながるのではないかと愚考する。そしてそれこそが仏陀の本当の教えではないかと思う。


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