現代の葬儀を考える  大きい文字で見る

野沢文子 新潟県 五十七歳

 日本は、多神教といおうか、実にいろいろな宗派がある。それぞれに葬儀のあり方も少しずつ違う。しかし、根本的なものは同じなのだと思う。華道、茶道等芸事にも宗派があるように、もとは池坊専永が始めたものであり、千利休が始めたものであったものが、枝分かれして無数の流派に分かれたごとく、仏教は釈迦、キリスト教はキリストと元祖ははっきりしているのだが、それぞれ時代と共にいくつかの宗派に分かれていったものと思う。それが個人の家においては、宗旨の違う家と縁組をすることによって、いろいろ入り交じり、現在、その家の世帯主となって先祖の霊を守っている人自体が自分の家の宗旨のしきたりもはっきりとは分からなくなってしまっている。
 そこで葬儀となると、僧侶と相談し、その指図に従わざるをえないのが現状だ。そこには故人の意志や家人の思いなどは時として無視されがちだ。そこで、一部有識者の間では、無宗教と称して、僧侶に頼らないお別れ会形式とか全く葬儀なしで散骨をなどというやり方が目につくようになったわけだ。それによって子孫に墓守りの面倒をかけない、会葬者に負担をかけない死後であるようにという故人の願いがかなうと考えたのかもしれない。仏教にのっとった葬儀の上に商業ベースにのせられた派手な葬儀、そこには世間体を気にする人の常として、会葬者への見栄を張る部分が多分に含まれる。
 葬儀社がとりしきる豪華な祭壇、そのまわりを囲む生花、造花、灯篭、そこに墨黒々と書かれた送り主の肩書つきの名札が一段と人目をひく。そこには売名行為が全然ないといえばうそになる。純粋に故人の遺徳を忍ぶ気持からとはどうも受け取れない部分がある。送葬の儀をせずに人生の終焉とすることには何となくすっきりしないものがあるので、やはり僧侶によるしめやかな葬儀は必要であると思うが、多額の費用をかけたセレモニーである必要はない。
 仏教の経文を読むと内容は非常にすばらしいものがあり、僧侶の読経に導かれて静かに昇天していくところに厳粛なものがあり、その場に必要なものは一対のれんげの花と燈明、線香であり、供物として菓子と果物があればいいわけだ。遺影を花で埋めつくすとか、大輪の花輪がずらりと並ぶといったことは必要ないと思う。
 そして埋葬となった時、墓地の取得にも多額の費用がいるということを耳にしているが、土地代が高騰している今日、広い墓地を取得するにはそれも止むをえないのかと思うが、広い墓地を必要とする大きな石塔でなくこじんまりとしたものが秩序正しく作られていくことが望ましいと思う。モニュメントともいえる石の芸術の石塔など多種多様な石塔の形式に目を見張るものがあるが、一戸の家として広い墓地を所有するよりも納骨堂として建物の中に納める様式も悪くないと思う。自然葬をして自然に帰すというのも否定はしないが環境問題等、考える時、やはり時期尚早と思われる。
 さて、最後に葬儀代ともいえるお布施の問題だが、葬式の数にばらつきがあり、収入が平均していない特殊な職業ともいえる僧侶は暗に多額のお布施を要求したり、戒名料として、高額を要求するのだと思われるが、檀家によって基本的な報酬が保障されていれば、葬儀による収入だけに頼ることなく安定した生活を営むことが出来るわけだ。寺にかかる経費一斉は檀家持ちとか後継者の養育費檀家負担ということはよくきくが、僧侶の年間報酬檀家負担ということはきいたことがないが、これを実行したら葬儀のお布施や戒名料に多額なものを要求する必要はなくなり、枕経、通夜、出張、火葬、告別式、火払い等に立ち合う費用として大学卒のサラリーマンの日当相当分をお布施として納め、戒名料などとあらためて徴収する必要はなくなるのではと思う。寺院の建物、墓地等は、代々檀家が維持して来たもので、その墓地の取得について何がしかの負担が必要であることはいうまでもない。


戻る