葬儀の原初の姿を想う
鴨井二郎 兵庫県 七十三歳
原初の頃、人の死はどのように取り扱われていたのであろうか。悲しみのあまり、身を大地にすりつけ伏し哭し、泥まみれになって別離を表現していたのであろう。そして死体に土を盛り、祈り、忘却にゆだねていたにちがいない。
何時の頃か仏教が入り、国家の庇護をうけ権力と結びつき、近世の一時代には人頭管理に利用された。それが今日の社会に、仏教が何とはなく、一般の人々の宗教として滲透しているのが現状だろう。従って、日本人一般の仏教に対する心構えは、宗教心ではなく習慣、昔から誰とはなく続いている習慣に他ならない。信じてもいない宗教を、私の場合曹洞宗と履歴書に書く。仏像は古美術品として鑑賞する。祖先崇拝の心を、仏様と宗教は形式的に結びついていても、崇≠フ対象は祖先であり、自然に帰した我が祖先である。
僅か百五〇年から二〇〇年足らずの昔、我が祖先には姓がなかった。あるのは名だけだった。戒名は貴族か武家か僧侶だけのものであったろう。何故今、我々に戒名が必要なのだろう。仏様に帰依するでなし、お寺の護持に寄与したわけでもない我々に、何故戒名がいるのか。
今日の結婚式、披露宴という風習も、元をただせばたかだか一〇〇年ぐらいが起源である。キリスト教の風を真似て神社が始めたものが今日に到っている由をきく。今、若い人の間で派手な、式…披露宴を避けて、二人だけの届け出婚≠ェ行われつつあると聞くが、むべなるかなと思ってしまう。葬儀においても、「届け出葬」というものが可能であるなら、祭壇も荘厳も読経も必要なく、親族知人相寄って故人を偲びたたえ、野辺の送りをするのが、一番原初の姿に近いのではないか。お骨は、一宗一派に偏しないお寺へ納め、誠心、お布施申し上げ、永代供養料を寄進申し上げたいと願っている。