現在の仏教に対する疑問  大きい文字で見る

小畑一男 北海道 六十三歳

 私は、以前より僧侶の考え方振る舞い、葬儀について首を傾けざるを得ないこと、納得が行かないことを心に止めておりました。僧侶の方に婉曲に疑問を話したことが二三ありますが、一向に是正されません。時代が進んでいるのに、僧侶(住職は高齢で仕方ないと思いますが)の方は気に留めないと申しましょうか、私達との間に乖離が有るように思います。
 以前よりこの様な事を話せる機関が有ればと思ってましたから、今回貴宗が取り上げてくれていることを知り(北海道新聞)手紙を出す次第です。尚、この様な企画を催した事に対し敬意を称します。
 私は、「神かってに、仏ほっとけ」「因果を知らず、業報を明らめず、三世を知らず、善悪をわきまえざる党侶には、群すべからず」の党侶である、63歳の男性です。又、オウム真理教・創価学会・真如苑・ものみの塔・等の方々を見ていると客感性がなく唯我独尊と言いますか、まさしく宗教とは麻薬だなと思ってる男でもあります。
 私の友人2人は、信仰心の厚い人で法華経は諸経の王(28品ある事も知らなかった。私はいま分かったが、坊さんの押し売りですね)だと言って熱心に信仰をしています。それを見て、どうしてそんな風になれるのだろうと(私は絶対になれそうもありませんから少しでも近ずく為に)仏教を(菩提心からではありません)かじっているところです。この様な男とわきまえて聞いてほしいと思います。
 勉強してみると、矛盾と言うか疑問があります。
 *お釈迦さんは、断食苦業中インドの俗謡、「琵琶の弦…きりりと締めれば、ぷつりと切れ…さりとて弛めりゃ、べろんべろん」を聞いて悟りを開いたと言う。極端な苦行難行からは、何も得られないと中道の真理を説いたと言います。しかし、宗派によっては苦行難行を行っています。これはどうしてでしょう。
 釈尊の教えは、二千有余年前の教えだから古く、後世の哲学者の書いた経に従っているのでしょうか。
 *お釈迦さんは仏教を開いた本尊です。釈迦牟尼仏常住不滅の仏として帰依するのは分かりますが、曹洞宗・日蓮宗以外は(間違っているかも知れません)哲学理論上生みだした如来・菩薩・天(大方インドの神)・等に帰依するのが分かりません。素朴な疑問です。
 *私が六道輪廻を信じるならば、五戒、その他の戒をことごとくを犯していますから死したなら私の様な者は浄土に行けません。当然、7人の裁判官に裁かれます。僧侶の慈悲で私を救うために7日置きに49日まで法要を行うのは分かります。
 しかし、信仰心の厚い方で、お寺の檀家総代を勤め宗祖の教えを守り多少の禁戒があっても救われている方、輪廻のしない世界「浄土」へ当然行ける方(僧侶でさえ)でも(49日の法要は必要ないと思いますが)行なっています(長老は僧侶の経済の為と言っている)。何故でしょう。
 仏教学者の、ひろ・さちや氏は、追善供養は三回忌(五道転輪王)までで、江戸時代から増えた、お坊さんの収入が多くなるからでしょうか、と言ってます。追善供養の思想は本来仏教のものではないと言ってます。僧侶の方はどなた様もそうは言っていません。どちらかと言えばやれやれの方です。私などは、仏教の思想に外れているのならやらなくても良いと思いますが…どちらが本当なのでしょう。
 *私は、これからも出来る能力の範囲で勉強しようと思っていますが、今のところ浄土へは行きたくありません(絶対行けませんが)。苦があるから楽しみがあるのです。至れり尽くせりの楽園だそうですが願い下げです。当然仏になろうとも思いません。「ユーモアのない天国など私は絶対行きたくない」とアメリカのある作家が言ってるそうですが、私も同調します。カラスの勝手にせいと言われそうですが、こんな男もいるのです。
 *仏式葬儀について経験した事について述べます。
 私は、昨年まで人口3500人足らずの小さな町に住んでいました。町内会も35戸の小さな町内会、役員をやっていましたので葬儀委員長(北海道では町内会長が委員長)3回経験し、多々葬儀は経験しました。
 曹洞宗・浄土真宗(東・西)・真言宗・日蓮宗・神社・天理教・キリスト教・あと何々派とか良く分かりませんが宗派の数は多くありません。どの宗派の僧侶の方も、率直に言って権威主義・金権体質です(行事をたくさん作って金くれ金くれです。三世の法則を説いて金を努めて出させようとします。貧乏人はうんざりです)。大方の葬儀役員も言うのですから、自信を持って言えます。
 田舎の葬儀は、稼ぎ人が多く経済的にゆとりがありませんから、町内全員夫婦共々出て会館で赤字が出ないよう一生懸命やるのです。生活改善もあり、私共のような者は香典料120万円程しか集まらないのです。僧侶3人、導師の方20万円くれと言います。喪主、総務役員と相談し脇の僧侶に 万円づつ高いなと思いながら泣く泣く払いました。戒名料は忘れましたが高額な金額と記憶してます。ある坊さんは、香典料の2割と言ってますが、だいたいの基準があるのでしょうか。
 当然赤字です、私の権限で男の人は食事を取らせないことにしました。ところがです、なんだか講とか言う人達が20人程きて、女のお手伝いさんの食事を食べてしまいました(全員共稼ぎで2日間休んで来てますので女の方だけ食べらす事にしてました)。予定外です。ぎりぎりの量で切り詰めてましたから仕方なく急遽おにぎりを買って急場を凌ぎました。
 私達はわざわざ供養に来てあげていると言う態度。私から見れば3人分にも満たないほんの少しの香典で冗談ではないですよ、この様な人々は憎き存在でしかありません。喪主の経済状況、葬儀の雰囲気を読めず信仰に名を借りた厚かましさ、とんでもない野郎どもです。この点強く僧侶の方の指導を仰ぐところです。結果的に大赤字で町内全員大変疲れ悲しい葬儀でした。委員長として悲憤、それより宗教に携わる人に怨念を持ちました。そこで考えます。
 *僧侶は喪主の経済状況を考慮にいれないのですか。何故一人で行えないのか?、一度聞いた事があります。役割があって三人でないと出来ないとの答えでした。長老曰く田舎は過疎で檀家が少なくなり経済的にゆとりなく互いに補完しあう為と言います。しかし、都会でもやってます。私は信じません。私は、1500cc30万円の中古車しか乗れません。僧侶の皆さんは高級車に乗れる良いご身分です。
 私の子供の頃、貧民クラスは一人の僧侶で行っていました。昔出来て今何故出来ないのか説得力に掛けます。何故出来ないのでしょうか。私達は、質素に行いたいと思ってますが、最近の葬儀は、年々派手になっています。何処の僧侶の方も指導・啓蒙はしてません。何故でしょうか。今の時代副住職は、皆宗派の最高学府を出ています。もう少しお考えになっても良いと思います。
 私は、貧しい母子家庭に育ち中学もろくすっぽ行ってなく鍛冶屋に丁稚奉公に出され、徒弟制度の中で年期明けまで8年間苦労しました。そんな者にとっては首を傾げます。世間様に職人気質の偏屈者と言われている男ですから一般的でないのかも知れません。
 *祈祷についてですが、噂はかねがね聞いていましたが、当事者より話しを聞いて唖然としました。法外な金を取って病気は治ってないと言う。私共無知な凡人に、三世の法則で惑わしこの様な事を行うのは詐欺です。強い憤りを覚えます。他の僧侶に類が及ぶと思います。是非啓蒙して頂きたい。曹洞宗では行っていないようです。
 *NHKのテレビで自然葬を見ました。布施、戒名料を払えなく僧侶のいない葬儀、林に散骨してました。悲しいではありませんか、私ならガソリン、弁当代くらいでやってやりますよ。仏教の根本は慈悲でないですか、一通り見て仏教界も乱れているなと思いました。まさしく葬式仏教。
 *乱れる根源は、僧侶の世襲制にあります。
僧侶住宅建設資金の有無を言わさず絶対的強請、息子の大学進学、盛り沢山の行事による金の請求、塔婆、奉仕の強要等、納得行かない部分が多々あります。檀家の上に胡座巷間耳にします。檀家制度の弊害でもあります。
 江戸時代から脈々と続いてきた制度ですから、今変えろと言っても暴論となりましょう。法的に檀家の総意で僧侶を変えることが出来るのですから、人事異動制度を(檀家、僧侶代表人事委員会)導入したらどうでしょう。検討に値しませんか?
 *今の世は、本音・建前・矛盾の世です。仏教で末法の世と言うんですね。私は、63年人間やってますから狡いところがありまして、使い分けて生きてますから大きな事を言うと叱られますが、仏教界も同じと思います。坊さんの悪口ばかりを書き建設的意見がなく申し訳ありません。仏教一年生ですのでお許し下さい。
 *私は学がなく理路整然と書けません。又、慇懃無礼な書き方も嫌いです。思い付くまま鍛冶屋の世界の言葉でいろいろ失礼な事を書きました。何を言わんとしているのか分かって下されば幸せです。
 教団の現状に甘んじることなく発奮興起を期待してます。


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