戒名が「買名」になっている  

大槻政之 群馬県 四十一歳

 早速、仏教葬儀に関して意見を述べさせていただきます。とは言っても、ほとんど僧侶や寺に対する内容となることはお許しいただきたい。
 まずは費用に関する問題。葬儀の全体の費用は当然、卒塔婆のお寺による値段の違い、『戒名』にいたっては、故人がどれくらい功徳をつんだかは殆んど関係なく、お金をつんで買う『買名』になってしまっている。本来の戒名の意義や居士・大姉・信士・信女等の意味をどれくらいの人々が知っているのだろうか。(それを知らない我々には問題がある)それに対して納得した上でなら、ある程度の額はかまわないと思う。好きで宗派を選ぶわけでもなく、たまたま墓地のあるお寺が「○○宗」というだけのこと。それだけ宗派にこだわる人が少ないのも当然、仏教徒(そう自覚する人も少ないが)であることの無関心さが残念である。
 仏教というものが現代では「葬式仏教」「儀式仏教」、いわゆる商売化(職業化)に完全になってしまっている。それも、すべては坊主・僧侶の人の質によって決まる。本来の修行の上に立っておつとめをする僧侶、儲けだけに走る僧侶。立派な知識人として檀家に色々と説法したり、功徳を与えようとする人、……。
 布施とは本来は「させていただく」ということが大切であると思う。しかし、額が少ないと色々と立場がせまくなるし、などと考えていくうちに高額化してしまう。高ければいいというものではない。一つの法制化というか基準を出して欲しい。
 アンケートも重要だが、はたしてどれくらいの人・寺が本心で答えてくれることであろうか。
 本来は、人々の寄りどころとなるはずの仏教の伝導の場所である寺が形骸化し、習慣となった行事以外は寺に行かないのはどうであろうか。もっと、だれもが気軽に寺へ足を運ぶように努力が必要だし、寺の役員らが頭のかたい高齢者だけなのも問題がある気がする。ある程度の年齢層から新しい意見を取り入れるのも、こういう時代だからこそ、必要だと思う。心の教育で、人々を導くべきである。
 良い僧侶のいる寺ならいいのだが、そうでない場合でも、好むと好まざるにかかわらず仕方なくその寺のやり方に従っているのが現状である。であるから、僧侶も努力を怠るような傾向になっているような気がする。葬式をあげてもらえなくなるのでは……という不安から強く意見を言える人が少ない。影では色々というのを耳にすることは多いがそれでは何の解決にもならないと思うのだが……。
 以上、好き勝手なことを書かせていただきました。失礼の程、お許しいただきたく、終わらせていただきます。



戻る