檀家はお金がかかる  大きい文字で見る

西山 中 千葉県 六十五歳

 私の家の近くに住む、一人住まいの老婆が「葬式にお金がかかるし、死ぬに死ねない」と決まって言う。この老婆の心配は、三百万円はかかるという葬儀費用だけではない。檀家として、その後の法事や寺から毎年のように要望される、伽藍の建築費や仏具調度品購入のための志納金を含めてのことである。
 実際に仄聞するところによると、寺院からの多額の負担金が巷間の話題になっている事例が多い。施主のほとんどが、年金収入に頼る未亡人であるだけに深刻であり、きのどくである。
 最近は家庭の少子化、核家族化にともない親族間の絆も薄くなった。旧来の家の制度がなくなり、個人主義思想や科学的合理主義思想の浸透は、高額かつ入檀条件のうるさい寺院を嫌って、宗派不問の霊園墓地を選ぶようになった。さらに形式的で通過儀礼化した葬儀も簡素化して自然葬や葬儀無用の遺言をする風潮も高まってきた。
 死者に授けることが通例である戒名は、本来仏弟子となって修行することを決意した者に、その誓いの儀式で授けるのであって、生前に授けるのでなければ無意味である。戒名の違いがイコール金額の差になったり寺の維持・管理費の割り当て金額の算定基準になったりすることは理解に苦しむところである。
 だが、寺の要求は「仏の供養のため」という足枷がついている。「たたり」を恐れ、成仏を願う心は、形としては志納金の負担しかない。寺にとっては、葬儀・法事・入檀料・建墓の開眼供養料・塔婆代などが収入源であるが檀家の核家族化、高齢化、農村地帯にあっては過疎化現象などのため、今後ますます寺の収入は先細りになるであろう。
 衆生済度の高邁な縁起思想のもとに創建された寺院も、時代を経て、現在では寺族の世襲財産としての存在でしかない。世襲資産の実態は、個人資産である。税法上特別の恩典のある寺院資産の財産価値を高めるために檀家が、単なる骨の置き場所になった寺に奉仕する由縁はない。
 檀信徒一族は、元来寺や僧侶に心や魂の救済などで大きな期待感がある。その信仰心に答えるだけの僧侶が寺に存在するのであろうか。また、近代的合理主義の教育制度のもとに成長した檀信徒がたよれる資質をそなえた僧侶が存在するのであろうか?

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