宗教とは信じること  大きい文字で見る

菊竹閣真 福岡県

 「寺」というと、佛教ということになりますが、佛教を含めて、宗教とは? と考えますね。私は慶大文学部哲学科を卒業して、 30年ぶりに、佛大文学部佛教科浄土学専攻生として、通信教育ではありますが、3年生に編入学して、3年間在籍して、中途退学した者です。その間に、シルクロードを2度、天山北路と南路を大唐大慈恩寺三蔵法師玄奘三蔵に憧れて、2千6百qを又、42度の暑さの中を敦煌も訪問しました。一九九二年秋には、当時佛大学長の伊藤唯真師を授戒師として、京都嵯峨野の清凉寺で、受戒して、閣真という戒牒(戒名)を生前にいただいた者です。
 さて、そこで佛教を含めて、宗教とは? と考えますと、私は結論的には、「信じること」、何を? かといいますと、人間の性の「善」なることを、と断言します。具体的には、「人に嫌がることをしないこと」「自分がして欲しいことをしてあげること」でしょう。やさしいことのようですが、なかなか出来ませんね。食べることでも、食べすぎると病気になるよ、とわかっていてもつい食欲に負けて食べすぎてしまいます。出家者が食事のときに心をしずめておもわねばならぬ五つのこと(五観の偈)があります。食べられるものの生命を殺して人間が食べて生命をつなぐのですから、色々と、食べる方が反省して食事をすることの大切さを教えています。衣服にしてもそう、華美にならぬようにハダカでいると、互いに迷惑をするし、恥かしいから身につけるのだと、佛教ではいっています。今年(二〇〇〇年)に入ってからの信仰心調査では、「宗[神]佛を信じない」があいかわらず「信じている」の2倍あります。前者は、金儲け、怖い、恐ろしい、うさんくさい、いかがわしい、インチキ、馬鹿らしい、関わりたくない、などが主な理由、後者は、病気やケガをしたとき、家族の死に直面したとき、仕事やお金に苦労したとき、学校生活や進学、受験人間関係で悩んだときなどに神や佛にすがりたいと思ったことがある、といっています。両者ともごく普通の思いでしょう。
 人生とは生まれて、死ぬまでの「時の流れ」のことですから、その間に、「必要を感じつつ、ためらい」があるのですね。宮本武蔵は数十度の真剣での勝負で「神佛は畏敬はすれど(おそれうやまうこと)頼みにしたことはない」といったといわれています。
 最近になって[全]日本佛教会(60宗派)が、戒名料などの名前をとりはらって、全て「布施」と名称をかえて、金額等も検討するというニュースもありました。少子高齢化社会のなか葬儀、死後を託す家族のこと、本来の生前の生活の智恵としてのお経の見方など、変わりつつあります。小さい頃、「学校ごっこ」をしてたように、余り考えすぎに「佛教ごっこ」をしたら如何なものでしょうか。
 今日も又、佛壇に向かって、ご本尊様、ご先祖様、朝は「おはようございまーす」。夕は「おやすみなさーい」の一日です。


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