寺壇[檀]制度は積極的に解体していくべきである  大きい文字で見る

綱川英次(51) 東京都

 現在の寺壇[檀]制度は寛永年間(一六二〇年代)に、主としてキリシタン弾圧の目的で幕府の要請により、「寺請証文」を寺が発行するようになったことが発祥である。私たちは、このことにまず深く思いを致さねばならないであろう。あくまでも国家権力の民衆統制の手段として創設せられたものであり、信仰を軸として教団と信徒との関係をもって自由意思により形成されたものではなかったのである。
 やや後に(一六七〇年代)「寺請証文」は幕府統一様式による「宗門人別改帳」に登載されるようになり、民衆統制の末端機能を寺が果すようになった。当時の寺側はこの制度を利用し、壇[檀]家側への様々な強制をもって自らの経営基盤の安定と社会的安泰を図った。
 明治期の廃仏毀釈等の危機的状況も何とか切り抜け、寺壇制度はその後も少しづつマイルドに装いを変化させながら、綿々と今日まで続いている。憲法によって「信教の自由」が保証されているにもかかわらず、寺壇制度は「わたしの宗教」を拒絶する「家の宗教」を、私たちの内心に強制し続けている。
 私は浄土真宗門徒である。別に自慢できる話しではないが、家族の中で門徒は私ひとりだけである。仏様への目覚めは強制や説得では得られないから、それで良いと思っている。私の所属するお寺ではそのような私の考え方を尊重していただいており、壇家契約の話し等一言もない。大変感謝しているが、組織としては「単身の」門徒であることと「壇家の一員」であることとが、どこまで峻別されているのか、いささかの疑念と不安があることも事実である。
 真宗門徒にとってお寺の一番大切な法要は年一回の「報恩講」であるが、門徒出席率はあまり良いとはいえない。逆に春秋の彼岸会法要には本堂にあふれんばかりの参拝者がある。残念ながら大半の参拝者の関心は宗祖聖人への報恩感謝よりも「先祖供養」であるように見受けられる。
 自らの自由意思で門徒となった(もちろん仏様のお導きによるものであるが)私にとってのお寺は、当然「法」に出会う場であり、信心を深めていく場である。大半の「壇家」にとっては右に述べた寺壇制度の歴史的弊害が根強く作用しており、お寺は「家」の先祖供養をする場となってしまっているのである。寺壇制度は、明らかに障害物でしかない。
 お寺にとっても、多くの壇家を擁していれば経済的には安定するであろうが、お寺が法に出会う場でなくなっていくことを加速させ、自分で自分の首を締めているのだと、気付いて欲しい。寺壇制度は基本的にマイナスにしか働かないことを直視して欲しいと切に思う。
 大都市圏への人口流入、急激な核家族化等の要因により、寺壇制度は自然消滅的に解体しつつある。私は、もっと過激な夢をもっている。「仏道」にとってプラスとならない寺壇制度は、僧俗一体となって力を合わせ、一日も早くその息の根を止めたい。


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