寺檀制度に思う  大きい文字で見る

高橋郁夫 神奈川県

 我が家の菩提寺は遠く離れた故郷にある。今は父母と五人の兄姉が菩提寺の位牌堂に祀られている。すぐ上の兄を除き他の人たちの死亡時期は古く、既に三十三回忌法要も済み、今では帰郷時に墓参こそするが、墓所と離れている菩提寺とは疎遠がちである。数年前に家督を継いでいた兄が亡くなり、はからずも我が家の祭祀を相続することになっている。縁とは不思議なもので、菩提寺の開山時に我が祖先が深く関わっており、しかも、妻の実家(寺)とは本末関係にあるうえ、今の住職と幼なじみという、二重、三重の縁で結ばれているようで、格別な親しみを感じる存在の菩提寺である。
 寺檀制度は、徳川幕府が自国民を夷狄の侵蝕から護る鎖国政策のため、国民の全てを家単位で最寄りの寺院に所属させたことに始まるといわれるが、幕府が仏教集団を監督下に置く一方で相応の特権を与えて庇護したことから、地位や生活の安定を得た寺院僧侶たちは、仏教本来の目的である布教や修行を疎かにし、権威と形式にこだわった葬送、祈祷の葬式仏教への道を辿って今日に至っているといわれる。しかし、戦後の個人主義・平等主義を基調とする新憲法の下では、寺檀制度の根幹をなす家制度が廃されたうえ、寺領農地の解放や非課税特権まで廃され、しかも、国民間には信教の自由を信教からの解放と曲解した信仰の希薄化が起こるなど、寺院僧侶を取り巻く環境は根底から覆っていると云わざるを得ないのである。にもかかわらず、旧態依然の寺檀制度を盾にして、儀式や戒名を商品化してまで特権の座に固執しようとする一部の姿勢に、批判や顰蹙が集まっているものと思われる。
 現状社会に合わない寺檀制度は止めるべきという議論があるが、文化価値をもつ伽藍や什宝の維持管理に相応費用を必要とすることも自明の事実であり、経費の確保が不可欠なことは現実的事実でもある。
 然からばどう調和を図るべきかと考えるとき、改めて、人の世は互いに示し合う誠意の上に培われた信頼関係で成り立っていることに思いを致し、言い古されたことではあるが、基本に立ち帰って現実を見つめ、時間はかかっても、誠意をもって地道に改革していく努力の積み重ねが必要なように思える。
 精神文化の欠如に起因するのではないかと思われるような、常識では考えも及ばない理由や手段の事件、事故が横行しているが、もはや法律の守備範囲を超えた次元の現象のように思えてならず、精神規範の拠り所をつくることこそ必要不可決なのではないだろうか。寺院僧侶が過去の栄華に溺れることなく、仏教を人々の生活規範として浸透さすべき努力をするときであり、現状に合った、だれもが理解し納得し得る仏教普及への地道な努力の積み重ねこそ、何よりも大切なのではないかと思われる。そして、積極的な情報開示とともに、必要なものは必要との認識の下で個人会員形態の費用募集体系を構築するなど、寺檀制度に代わる制度の創設を目指すべきではないだろうか。実情を知り得た上での誠意ある努力に対しては、だれもが協力を借しむものでないことを信じたいと思う。


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