私にとってのお寺
大きい文字で見る
黒田 勇 北海道
私の祖先は富山県出身の浄土真宗です。明治の後半北海道の開拓移民を希望し来道しました。当時の両親は子供が別居するとき、必ず真宗のご本尊である「阿弥陀如来像」を持たせるのが習わしになっていたそうです。私も結婚する前年新居を建てたのですが、父は「どんな家でもよいけれど、仏間のない家は建てないように」とだけ言われました。
子供の頃は母に連れられてや、使いはしりでよくお寺にいった記憶があります。私達の頃は尋常高等小学校を卒業すると、家業を継ぐ長男以外は殆ど家を出て就職しました。私も国鉄に就職、下宿生活に入りました。別居すると段々お寺とは疎遠になり、盂蘭盆、お彼岸くらいになりました。昭和32年に父と死別、昭和54年に母と死に別れました。
兄が実家を守り、年忌法要を勤めたほか、毎年兄弟姉妹の家族を招いて家庭報恩講を勤めてくれました。そんな家庭で育ったので、私もある程度お寺については関心を持っているつもりでしたが、実態は葬式や法要のときだけのお寺頼みでした。
そんなとき平成4年妻と死別、このとき程人生のむなしさや悲哀を感じたことはありません。現職の頃は転勤族だったので、実家のお寺にお世話になっていたのですが、遠距離は何かと不便なので、近くの真宗のお寺にお世話になることにしました。お墓か納骨堂かで迷いましたが、北海道は半年は雪の中なので、納骨堂のお世話になり、亡き妻を思い出す度にお寺へお参りしていました。そんなときこの手継ぎ寺では毎月10日25日の聞法会、第1、2、3土曜日の研修会、28日の親鸞聖人のご命日の集いのお参りがあることを知りました。研修会ではお経、正信偈や嘆[歎」異抄の解説を詳しく説明してくれます。
最近のお寺は葬式仏教と言われていますが、こんなに熱心なお寺があることを知り、亡き妻に導かれてその幸運に恵まれたことに感謝しています。
とかく檀家になるとお金がかかるといわれていますが、確かにお寺は慈善事業ではありませんから、最低限維持費だけは納めなければなりません。あとは葬儀、法要、月忌参りなどに応じてお布施を包めば十分です。お坊さんの話によると「お布施はお気持だけで結構です。いくら沢山包まれても、どんなに高額の寄進をされても、現世利益はありません。生老病死は救えないのです」と言われます。聴聞するたびに仏さまの教えを聞き、信心することの難しさを知り、自分本位の醜さが知らされます。我が宗派は聞法を通して「あるが侭の裸の自分を知ること」に努めることと言われています。
信仰なき生活はどん底に落ちたとき、立ち直るのに時間がかかると言われています。私は分からないながらも、これからもお寺参りを続けたいと願っています。