建物としての寺から信仰の場としての寺へ
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佐々木隆(東北女子大学教授) 青森県
南欧の文化遺跡を巡る旅行をした時に、カトリックの総本山であるバチカンへ行きました。日本人のカトリックの巡礼団が日本語でミサをあげていました。見ていると、そこへ日本語の分からないお堂にいた外国人が参列していったのです。次に、フランスのシャルトルの大聖堂で、その土地の人が結婚式をあげていました。後ろの方で見学をしていると、献金を集める袋が回ってきました。この状[情]景を見て驚かされたのは、誰でも、自由に参加し、また受け入れ、喜びを分かち合うとする態度です。そして、文化遺跡というと過去遺物、博物館と言うイメージですが、今も人々ともに生きて宗教としての機能を果していたことです。
バチカンやシャルトルでは無科で入って見学し敬虔な雰囲気を体験することができましたが、日本では、観光地になると、俗化して、拝観料を払って、寺に入っても、過去の遺物を集めた博物館の入場料以上の意味が感じられず、宗教に触れて喜捨やお布施をしたいと言う気持ちが湧きません。お布施とは信者がまるで税金のように払う義務と思われています。本来は僧侶も人々に仏の教え(法施)をなんらかの形で与えなければならない六波羅蜜の一つであることが忘れられているのではないでしょうか。
お寺に、仏さまをお参りに行こう、祈りを捧げに行こうという気持が日常的に起こらないのです。つまり、お寺の活動が檀家の数を増やし収益をあげることではなく、すべての人に仏の教えを広く伝えることとして機能していないのです。いつでも誰でも生きた宗教や教えに触れるということができません。
檀家であるとは基本的には祖先とのかかわりで、仏教というよりは日本の祖先信仰に近いと思われます。檀家との関係でしか寺が存在していないような閉鎖的な態度は、仏の普遍的な教えに対してあまりにも狭い心ではないでしょうか。寺が檀家によって支えられているとしても、すべての人に開かれているべきもので、仏教の基本的な教えへの自覚を深め、人々を啓蒙し、多様な思想への理解を共有しても良いと思われます。
キリスト教の教会はギリシヤ語でエクレシア(集まり)という意味の言葉で建物を意味しません。二人以上の人が真実を語り合えばキリストが臨在しそこが教会だといわれます。仏教も釈迦とその弟子の関係から始まったとすれば、同じように仏教の真理が語られるところならばどこでも寺と言っても良いのではないでしょうか。
お経の多くが対話の形式で書かれていますが、今の寺の中には対話がありません。偉そうなことや難しいことを話す必要はありません。人の話を聞いてくれる場所、慰めや喜びが得られる語らいの場所になって欲しいと思います。『ブッダのことば』によれば、そこが浄土となるからです。