釈迦の弟子になったという自覚で 大きい文字で見る
細貝英夫 広島県
私にとってのお寺、それは「仏法に遭う縁を与えて下さる所」です。しかし、今お寺の状況はどうなっているでしょうか。
私は浄土真宗の門徒ですが、勧誘に来る新興宗教の人達が口を揃えて、「代るのは浄土真宗の人」と云う。私は、それは浄土真宗の人ではない、というのです。唯、家が真宗であった、と云うだけで、当人は迷信の人なのです。と、でも悲しいことです。
お寺参りは、数人の老人、そして、これから老人になる人が、お参りするようになるとは思い難いのです。悩みは昔より多くこそなれ、少なくはない筈なのに……。
私はお寺に産まれなくてよかったと思った頃がありました。僧侶が嫌いというのではなくて、どれ程勉強したとしても、信心が得られずに説法するのは辛いだろうと思ったからです。そして今も学問と信心は比例しないと思っています。
私達が助かるのは、真実に目覚めることによると思われます。ああすれば運が向いて来るとか、こうすれば病気が治る等と云うのではなく、我が身の真実、この自分の悩みはどこから来るとか、自分とは何なのか、等。この身に起ってくる事実を通して聞こえてくる真実の声を聞こうとすることがなければ、私達に安らぎは来ないのです。
一つ物を知る毎に、ひとつずつ偉くなったように思えてくる私の錯覚を気付かせてくれるのも仏法です。しかし、お寺は、本当にそれを気付かせる働きをしているのでしょうか。
世の中は、起工式、結婚式、式と云えば神式です。神の国とは良く云ったものです。唯一つ、葬式仏教と云われ乍らも、葬式だけは仏式が多いようで、せめてもの救いではあるが、それとて、葬式に仏教が活かされているだろうか、と思うと、喜こんでばかりは居られません。お経は、説法とは云い乍ら、一般には意味がわからず、唯、浄土に送り届けて貰う呪文のように受け取られているようで、それは、迷信の儀式と云わざるを得ません。厳粛で、荘厳であれば良いというものでもないでしょう。
葬礼が大事というよりも、葬礼の場を、真実を伝える大事な機会、と捉えて戴きたいと思います。そうすれば自ずと成す可き事が見えてくると思うのです。
形式や、権威を重んじるのではなくて、親鸞聖人の顕真実のお心を具体的に実行しても良いのではないでしょうか。例えば、法名、釈○○が、釈迦の弟子になったという覚悟、自覚を持って、向後の生活を、法を中心として行こうということであるならば、御門主さんの専売特許的な法名の授け方ではなく、各所のお寺から「法名を付けて聞法しませんか」と呼びかけて、住職から法名を与える、というので良いと思うのです。
因みに、私は自ら名告ることにしました。釈唯聴です。