豊かな心のために  

細山行敏 東京都 

 私がお寺のことを考える場合、最初に思い浮かぶのはお墓とか、お葬式のことである。幼少の時は何か高尚な、深遠な別世界であったように思えた。また心の中では、そういった荘厳な感じの何か精神を落ち着かせてくれる改まった所、というイメージもあったと思う。特にお寺に行くのは法事の時で、久々に親戚の人達と顔を合わせたりする場でもあった。そしていとこ同士でお互いの成長を見入ったものである。
 こういった目に見えない幼少からの信仰心というか、崇拝的なものは今も続いている。特に歳をとって思うことは、先祖に対して手を合わせ拝んではいるが、結局は自分の心の癒しとしてやっているような気もする。何か嫌な事があれば何んとか早く解決してほしいと願い、良い事があったらお蔭様でありがとうございましたというような、仏壇に拝んでいながら自分にいい聞かせているように思う。人間には本来、信仰心が必要だし、苦しい時の神頼みではないが、何者かに心の寄り所としての存在は大切と思う。
 今心の貧しさや、虚しさを感じている人も多いと思う。生活が機械化され、コンピューターの発達による人間性の喪失など、人の心に安らぎが持てないのが現実であろう。そして人間精神が衰え、感激とか情熱というものがなくなってきている。また年老いての生活もアテにできない。そういった現実から逃れたいと思えば、何かにすがりたいとすれば宗教的なものになるだろう。それは子供達にとっても同様であろうと思う。
 昨今、教育革命とかで学校も道徳に力を入れはじめている。ほとんどの子供達は塾通いがあたり前のようである。こういう状況だからお寺としても役立つ時がきていると思う。教育界もやっと試験のみのための知識や学力より、道徳の方が大切ということがわかってきたようである。
 お寺を近隣の地域の人々に、昔の寺子屋的な場として解放[開放]することだ。心の寄り所として特に子供達が心を休める場所、自分を省みる所として、静かな場所を提供してほしい。座禅を組ませるもよし、禅とか宗教の話をするのも良い。大体において宗教と道徳は同一のものである。戦後、生活が西洋化すぎて精神的安定が欠けてきた。学校教育の不足を補ったり、本来家庭でする躾や人生観、生き方の講話もお願いしたいと思う。今の人々は、目先の利益とか考えて何か精神的な大切なものを失っている感じがする。特に四書五経などわかりやすく教導して頂けるよう、貢献してほしいと思う。
 将来の指導者は知識や技能があるだけではダメだ。道徳心を持った熱血たる人物の養成が急がれる。そういった一助の場としてのお寺の役割が期待される。



戻る