宗派を越え仏教の原点に帰れ  大きい文字で見る

坂井旦史 

 昭和の初期小学生であった私は、寝言にも南無阿弥陀仏≠ニ云った祖父と、お盆休み、正月休みと生活を共にすることが多く、自然に浄土真宗の教えに入ったものである。毎朝夕食前に必ず多くの孫達を仏前に正座させて、正信偈≠フ読経を実践した。お盆の時は、仏壇の両側に極楽と地獄の掛軸を掲げて、人の在るべき姿をゆっくりと、又判り易く話をしてくれた事を思い出す。そして、月に1〜2回の日曜日、片道約4qもあるお寺迄歩いて往復して、所謂お説教を聞くのに同行し、帰路子供達にはお寺からお菓子を頂戴したことを、今70有余になっても明確に思い出される。時代の流れ背景は全く変化してしまっているが、あの時代の信仰は力強く、然も自然の形で実行されていたと思う。現在と一番違うのは、法主さんは良く勉強され、行動され、尊敬される存在であったことは確かである。
 共に真剣に、そして規則正しく、仏典に親しみ、その教えを戴いていたのである。従って、日常生活の一部になっていたと云える。
 今日、浄土真宗も東西に別れ、宗門の為の宗派仏教が主体で、個々の生活仏教は僅かに実行されているが、何か形式的で祖先の供養も事務的になってしまっている。寺の運営も、幼稚園、駐車場等の経営で成り立っている実体は、時代の流れとは云え、大きく軌道を脱れているのではあるまいか。権威、営利が先行していては、真の人生仏教、即ち求道、伝道、人間社会での安心した生活の為の、学習は厳しいものがあると考えられる。現在、月2回仏典の講議[義]を受講しているが、仏教学は益々盛んで仏教自体は后[後]退していると感じる。多くの人は、仏典の解説よりも、自己の人生観の為の仏教思想を学びたい、教養としての日本仏教、特に仏教文化について学びたい、という人が多いと感じている。従って専門的学習は仏教者同志で研讃されるもので、一般的には、仏教は人生の宗教であることに徹して、日常現在の言葉で、仏の教えとして、指導されべきと考える。この為には、宗派を越えて、仏教の原点に帰るべきである。
 世界宗教平和国際会議も、年毎に参加者も多くなり、昨年も日本から二百余名が出席されているが、その前に日本の宗教界の大同団結、統一理念の下に活動される必要がある。其の為の最小単位がお寺さんで、正しい人生仏教を法主さんを中心に門徒一同が学習する必要がある。
 どんな形で仏の教えを戴くか。御文¥じた現代版の、全門徒が親しめる何かを作成するのも日本仏教者の大使命と云える。生活の一部になって、自然にお寺さんに足が向き、その教えに感動する形がどんなものが良いのか。何かが出来なければ、仏教そして大きくは宗教の存在の意味はないと信ずる。全員の必死の努力が、夫々の宗派の「トップ」が決断し、実行する勇気が求められていると思う。そして、お互いに信じ合い、愛し合い、助け合い、希望と喜びをもって生き抜いていく、仏の教えの流れが構成されることを願って止まない。


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