心の救いの扉に
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三木慶子 大阪府
私は、お寺といえば拝観、あるいは墓参以外にはなじみのないものだと思っています。それはお寺自体が日常生活との関係がうすい、だめだと感じるからです。
「私にとってのお寺」は、私の中ではお寺が私に与える存在と、お寺へのこうあってほしいという要望の2つがあります。
私にとってお寺の存在とは、お寺そのものが私に与える存在価値とか影響力とかいったようなものが、とても大きなものであることです。
私はお寺に安置されている仏像には限りなく敬愛するのですが、それは多くの罪でがんじがらめになっている私自身の心を慈愛で赦してくれるような安らかな気持ちにみちびいてくれるからです。(罪は決してなくならないものであるし、また赦されるべきものでもないのですが……)
もう1つ、私のお寺への要望では、お寺そのものがココロの救いの扉の1つであってほしいことです。自分を受け入れてくれる≠るいは私を認めてくれる≠謔、な救いの場がお寺にあってもいいのでは? と思います。私自身どちらかというと精神的に弱い部分があるので、エネルギーをひきだしてくれるヒントや、迷った時の道標があればどんなにか心安まるだろうと考えます。
私は、シンプルなたたずまいで次元の異なったかのような空間をもつお寺と、柔和でしかもあらゆるものを見透しているような仏像に大いなる好感を抱いています。
ヒトは、肉体と精神のバランスがとれてはじめて安定するものだと感じています。この精神の領域を、歴史と荘厳さが備わったお寺がカバーしてくれたならば、どれ程頼もしいだろうと期待するばかりです。