檀家制度は滅びるか 大きい文字で見る
山崎春一 北海道
まず、お寺と私のかかわりを述べてみよう。北海道開拓者の孫である私は、学校に上がる前、よくお寺に行ったものである。祖父母の家で育ったから祖父に連れられて。戦前のことである。当時は檀家制度は歴として生きていた。多分、徳川幕府が人民を治めるための一つのすぐれた方策として出来上がったこの制度は、東北農民の檀家制度を引きずって、北海道でもそのまま末寺とつながっていたのだろう。信心深い祖父に連れられて私は年に何回もお寺に足を踏み入れた筈である。本堂へすすむ廊下の途中の壁に広げられている地獄極楽の絵紙は恐ろしくもあり、何か心にしみるものでもあった。文字はひとつも書かれているわけではないが、その極彩色の大きな絵は今でも印象に残って消えない。鏡の前に座している閻魔大王の赤い顔とふとい角二本。舌を抜かれている亡者、血の池に溺れている亡者たち、針の山に追われるボロをまとった男と女たち。誰も何も言ってくれなくても、私はこの絵紙を目にするたびに、正しい行いのできる大人にならねば、恐ろしい目にあわされるんだと、子ども心に肝に銘じたものである。そして、何故かこの絵紙を見るのが楽しくさえあったように思う。もう一つのお寺へは近所の子ども仲間と行った。そのお寺の玄関の正面には、美しい曼陀羅の図柄が、はなやかな絵模様を輝かせて飾ってあったからである。そして、墨染めの衣のお坊さんからはタタリとマツリのお話を聞くことによって世間的道徳を身につけたのかも知れぬ。
しかし、成長するに従って、私は仏教そのものに疑問を深めるとともに、僧侶らの行動を日常的に疑うようになっていった。檀家の責任者として寺に献身的だった父も、それほどカミ・ホトケに助けられることなく死に、私も故郷を離れて転勤生活を送った結果、都市に老後生活を築いて、無宗教主義者に化した。多くのひとらが、衰微していく過疎地を離れ、先祖代々の寺を離れ、見知らぬ町で暮らすようになった。寺との付き合いは無くなっていくのである。これら伝統宗教の仏寺はさらに布教・伝道するわけでもなく、少なくなっていく檀家の数にすがって、葬式仏教に何の策もなく、自覚もあるように見えず、ただ安住して自分一代の暮らしが立てば、まあイイヤという具合に見えてくるのである。金キラキンの袈裟に身を飾って、車走らせて。
何故、寺の僧たちは布教・伝道に身を投じないのか。現代がこれほどの貧・病・争などに人びとが悩み苦しみ、世間的常識的倫理に欠けていて、人間関係が水のように希薄になりつつあるいま、何故、彼らは僧侶として仏道を説くことに、ただポカンとしているのであろう。何故、戸毎に墨染めの姿で回り、ただのひとりでもいい、仏を説き、ひとの心をゆさぶるような行動に出ないのであろうか。仏教の未来を信じないのであろうか。