救いがたい日本の仏教

一信徒

  21世紀の仏教を考えるということで、一信徒として日本の仏教をみた時に、余りにも多くの欠点と矛盾があって、もはや救いがたい、むしろ潰してしまったらどうだろうと考えます。
 私は天台、真言の密教、蓮密といわれる日蓮のことは考えないことにしています。祈祷が仏教を駄目にしてしまったと思っているからです。理趣経はむずかしくて、何が何だかわからない。僧籍にある人たちもそうでしょう。治病、招福等一切の祈祷は今日に於いては迷信としなければならぬと思っています。
 余りにも多くの仏、菩薩、天部の諸尊があって、それぞれにその効能書きを競いあって、まるで薬の広告のようにさえ感じます。拝む気にもなりません。お札、お守りを売る。いやですね。
 日蓮の論理にいたっては、現代には全くあてはまらないので、僧侶は祈祷に精を出していてみっともない。
 久遠の本仏に対する信心など、何十年も気をつけていますが聞いたことがありません。ですからこの三宗は除外します。だめだと思っているからです。
 しかし、永平寺に仏教を感じるかというと感じない。これも最近とくに祈祷に熱心である。寺の経営のことを考えるからです。これもはずす。
 すると臨済宗ですね。これに期待しています。仏、菩薩に対する考えがしっかりして、白隠禅には祈祷はないと云いますし、それと親鸞上人の浄土真宗に期待しています。阿弥陀仏の信仰は日本に於いて最も顕著な発展を遂げていますから日本仏教の今後は、この信仰の役割が重大となると思っています。弥陀一佛以外は拝さない。これがなんともすかっとしている。

檀家制度について
 江戸時代のはじめ幕府によって檀家制度が全国に施行され、家の宗教が決められてしまった。このため所属する宗派は知っていても教義はどんなことなのかということになると、知らない者が大部分ということになってしまった。寺の方でも、この方が楽だったのでしょうし、檀家にしてもその所属する宗派を好むと好まざるとに関係なく、考えても仕方ないと思うものだから宗教に対する関心を失い、必要の時のみ仕方ないから利用するという傾向になってしまった。
 戦後信教の自由が与えられるようになってからでも、宗教に興味を示さない者が大部分で、僧侶自身も、寺に生まれたから、仕方がないので僧になったというのが殆んどでしょう。
 檀家制度はやめねばならない。
 檀家制度がなくても、人が集まる寺にしなくては仏教と、その宗派の活性化はあり得ません。そして寺の数を3分の1位に減らしたらどうですか。
 寺が多すぎます。
 日本人はもっと積極的に自分の宗教を持つべきです。それがなくて無宗教で死んだ者は仏教の寺で葬式するのはやめて無宗教で送るべきです。


 檀家制度はなくなる方向へ急激に向かっていくでしょう。当然の結果として、何々家の墓はなくなっていきますから、各寺に合祀墓を設けて過去帳完備でゆく。年回法要も四十九日、一周忌、三回忌、七回忌くらいで切り上げる。合祀墓は各寺で盆、彼岸会に回向があればよいと思う。

法名(戒名)
 浄土真宗では二字でよい。釈‥釈尼‥禅宗では道号と戒名の四字でよい。院号とか貰うのはやめたい。院殿大居士とか、生前に仏に一度も合掌したことがないものにつけられている。見栄で虚栄心をくすぐるのが仏教ではないはずです。
 これが差別ときらわれるのです。やめていただきたい。
 居士、大姉、信士、信女もいらない。
 戒名料とは僧侶の贅沢費に化するだけでしょう。
 墓、戒名が決まってしまえば葬儀に管長さんを呼んだり、三導師だとかも要らぬ。
 葬儀は僧侶が二人か、三人でいいでしょう。
 ただ各家では過去帳を銀行の預金証書並に、火事、災害から守るところへおいて祖先を偲ぶよすがにしたい。こうすれば宗教が変っても、仏教の内で他の宗派になった時が来ても古い昔がわかるだろう。
 仏壇も各宗共通のものが好ましいし、本尊も釈迦でも阿弥陀でもかまわぬ。よほど排他的宗派になったら別であるが、その時はその時で仕方ないだろう。
 仏教経典の成立史を少し勉強してもらえば、念仏無間は言えないはずであるし、各宗派共宗我を捨てるべきであろう。

寺について
 日本仏教は在家仏教だという。妻帯はよいが世襲制には一考あり。世襲制を強調しないで一般より住職候補を入れることも考慮していくべきではないだろうか。僧侶の劣悪化を防ぐためにも。毎日の勤行さえも、ろくにしないような僧侶もあると聞く。
 こうなると葬式法要専門になりさがった存在の寺は、社会における存在価値の全くないものになり下がってしまった。名僧といわれる人は宗教的才能のあった人たちである。音楽に音楽的才能、スポーツに運動神経が必要であるように、宗教的才能のない人、少ない人が住職になるから、全く菩薩心のない、檀家の教化もできなく、毎日のお勤めも欠くようになり、あげくのはては開運…天とかをまつり、赤い旗を立て金をとることを考えるようになるのである。
 現在日本の仏教という言葉からは葬式法要という言葉しか浮かばない現在。この機会、つまり近親者の死によって人生の無常を自覚し、人生の意義を考えるように説法することからはじめよう。金襴の袈裟を着てやらぬこと。それこそ敬遠される。えらぶらないことだ。

祈祷
 祈祷の上でまつられるのは多く非仏教的インドの諸神が多い。治病、延命開運、交通安全、厄除等々。今日に於ては、すべて問題とするに足らぬものであり、迷信とすべきものであって、仏教のものではない。
 やめたらどんなにかすっきりすることか。
 欲をさそうものをまつらぬこと。今ある諸神をとり払いやめること。
 百日の荒行とかで水をかぶるのを仏道修行だと思ってはいないか。これが仏教ですか。これが仏教なら早晩、寺に人はいかなくなるだろう。
 これは確実です。

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