葬儀仏教からの脱却を
大きい文字で見る
小松安和(73) 長野県
私の祖父母は、今から六十年程前に亡くなった。その時葬儀に見えた和尚さんは威厳があり、子供心にも何かひかれるものを感じた。ヒゲの老僧の読経は人々を別世界へと導き、成仏する死者と一緒に天空を歩く気持ちにさせたものだ。
その大和尚の息子さんは、学校の教師(村の)をしていた。だから村人と知り合いであり、「先生、先生」と慕われていたし、盆や暮れには村中の檀家を一軒一軒回って歩いた。それはお布施欲しさからではない。人々の心をつなぎとめ、祖先の霊をまつり、祖先あって現在の生活がある事を説き知らしめる行脚でもあった。子供や若者にとって、祖先や親の有難味が分る機会でもあった。
時代は移り変り、今の寺の在り方は百八十度変ってしまった。即ち葬式仏教になり下がり、葬式のお布施百万円と聞く。日頃見た事も、会った事もない和尚さんが、何人かの供を引き連れてやって来る。それも葬儀場へ。一時間余りの読経で百万円。それはまさに暴利であり、人の弱味につけこんだ脅迫としか思えない。
過年度、私の菩提寺で、本堂の修理があり、檀家から何十万円かずつの寄付を集めた。その落慶法要と晋山式に、祝儀を持って出かけた。金、金の世の中。戒名も金で買う時代。それもお互い食う為の止むなき処世術かも知れない。
でも、そもそも宗教とは何か?
宗教とは人々の心に灯をともす人間開眼の為のものであり、強者も弱者も共に差別なく救済され、仏となって天国へ導かれる為のものであろう。宗教の名の元に争ったり、戦ったり、人殺しをするなど以ての外である。
私はラジオやテレビ、或いは講演会で宗教人(和尚)の話を聴く。そして何か心洗われるものを感じる。とくにあの瀬戸内寂聴さんの話など、多くの人は感銘して聞いている事と思う。法名や墓の立派さは、人間差別の存在を示すだけのもの。
今年私の母は死んで二十七回忌を迎えた。私の家へは毎月、この二十七年一度も欠かさず尼僧が供養に来てくれる。そして世間話をして帰る。私は毎朝、般若心経を捧げて祖先を偲んでいる。
今の時代、墓はなくとも何万円か納めれば、納骨堂で供養してくれる。菩提寺など必要なくなって来た。檀家制度を改め、考え直す時に来ている。今の老人達がいなくなった時、寺は無くなってしまうだろう。
少なくとも、檀家制度にあぐらをかき、葬儀仏教から脱皮して、大衆の中にとびこみ、地域の核的存在としての、お茶のみサロン風な説法を試み、宅老所的存在を図らねば、存在は難しい。仏教が宗教である為には!