寺以前に帰依される僧侶たれ  大きい文字で見る

松浦 正(77) 北海道 

 数年前、中国の西安を訪ね、発掘された陶器の兵馬俑を見学した。その時、さしもの絶大な権力を誇った秦始皇帝も、死の恐怖から逃れられず、死後、自分を守るために六千体といわれる地下軍団の兵馬俑を作った、ということに、始皇帝に対し、非常に身近な人間味を感じた。彼も人間として、死の恐怖に対し、安心を求めていたことがうかがわれる。また彼はこの恐怖の故にこそ、那智大社の近くにある徐福廟が示すように、不老長寿の妙薬を求めて、徐福を日本にまで派遣したものである。
 本年4月、義父の17回忌法要を縁として、初めて高野山を参詣した。眞言密教の総本山である当山は、約千二百年の昔、弘法大師が開いた聖地である。参道の両側には、歴史上の有名人や諸大名などの墓碑や供養塔、20万墓以上が、苔むして、ところせましと並んでいる。川中島合戦の両雄、武田信玄と上杉謙信も向いあって仲よく眠っている。当山は昔から、宗派にとらわれず、あらゆる階層の人々の心の憩いの場として、或いは魂の安息所とされてきたが、人間として死の恐怖と、それ故の安心を求める心が、いかに強かったかをもの語っている。
 心に安らぎを与えるよりどころとして、古くから、数多くの宗教が生まれ、そのひとつである仏教も現代にうけつがれている。しかし、近年、私たちの生活圏が、全地球規模となり、社会の激変に伴い、仏教もその渦中から逃れることはできない。長い時代にわたって、私たちに安心を与えてくれ、先祖代々の供養をしてくれた寺のありかたが、再検討される今日となっている。
 私は、寺とのかかわりの窓口は、その寺の僧侶であると考えている。僧侶には、立派に修行をつんだ、思わず合掌したくなるような僧侶も、老若にかかわらず、少なくないが、反面、これでも僧侶かと思われる、ダメ坊主も存在する。本堂や山門などの増改築や、ゆかりの祖師法要の時など、檀家に寄付金が要請されるが、貧者の一灯として、喜んで、進んで納めさせていただくべきものであり、寄付金額は、檀家の寺に対する信頼度であるから要請金額は明示すべきものではないと思う。あんなクソ坊主が頑張っている寺に、寄付など、もってのほか、と思われるようでは困る。僧侶は窓口であるから、先ず、人格、人徳共に檀家から信頼され、尊敬され、経文にあるように、帰依される勝友としての僧侶であることを願いたい。葬儀不要論や、散骨などの問題も、視野に入れるべきかもしれないが、檀家制度でサラリーマン僧侶となることなく、社会不安の今日こそ、衆生済度のため、明るい21世紀を目ざして、安心を求める人間の本性に対処して、僧侶の寺外を併せての積極的活動を、心から念願するものである。


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