寺も僧侶も変わらなければならない 大きい文字で見る
松島成浩 熊本県
現在の僧侶と呼ばれている人達は、今の寺の在り方を考える前に、今まで寺はどういう役割をしてきたか、僧侶は人々に何を説いてきたかを問う必要があると思う。
葬式、お盆、彼岸、回忌があるごとに死人、お墓、仏壇を前に僧侶はお経を唱えているがお経をわかりやすく言うベきは、自分たちがいつも背を向けている生きた人々ではないか、今も悩み苦しんでいる人々の方ではないかと思わずにはいられない。
仏教と言うと「線香くさい」といわれるのは、仏の教えを死人に対して唱えてきたためであろう。生きている人々に説くベき仏教がそうなったのは、歴史が示すとおり圧政や弾圧があり、江戸時代の檀家制度の始まりとともに宗教を選ぶ自由、生きるための権利さえも奪われてしまったからであろう。しかし、時代は変わったのにお寺と僧侶だけは以前と変わらない。なぜか、僧侶はお寺を維持させることと保身のみを考え、仏教の原点を忘れてしまっている。悲しいかな葬式仏教、仏教哲学などといわれ、庶民から遠ざかってしまった。それゆえいかがわしい宗教団体やカルト集団に騙される人があとを絶たない。
わたしは思うに、仏教をはじめとする宗教教育が子供の頃よりなされていれば、悪徳宗教家に騙されることはない。たとえば、オウム真理教が仏教徒だと言ったとき、「それは嘘だ」と断言できると思う。将来、学校教育の中でそういった事が議論されるようになるといいであろう。
最後に、お寺と僧侶は今後どうしたらよいのか私の考えを一言述ベさせていただく。まずお寺は、個人管理をやめ市町村で管理をし、宗派の垣根をとっぱらい、集会場のようにして仏教の話(各宗派が交替)を聞く場所にし、お寺の近くの人が出入りしやすようにオープンにする。
次に僧侶は、葬儀などの儀式を一切行なわず、読経も止め、釈迦の教えを説法して歩くこと。
以上のことを言えば「なんてばかな、代々受け継いできた寺はどうなる、お墓はいったい誰が守る。」といった憤りの声が聞こえてきそうであるが、お釈迦さんは「立派な寺を作れ、お墓を大事にせよ。」とは一言も言っていないのである。亡くなるときも「自分を拠り所とせよ」といわれている。
今は皆宗教に不信感を抱いている。寺も僧侶も変わらなければいけない、変わるには痛みを伴う。しかし、変わるのではなく、原点に返るのであることを忘れてはいけない。
ぜひとも仏の教えを、後世に伝えていってもらいたいと私は願っている。