住職と檀家はもっと開かれた対話を
大きい文字で見る
照井青二 秋田県
春と秋のお彼岸には檀那寺にお参りに行って、昼間はお一人でおられるご老体の坊守さんを相手に広い庫裏で肩のこらない話題で過ごす時間がたまらなく至福の一時のように思われてならない。跡継ぎのご長男はご自分のお仕事ももっている住職なのでお葬式や法事等でしかお会いすることはないし、おとき[斎]の席ではいろいろ世間話もしますが日常お寺で会ってお話する機会がないのがとても残念です。
法事は死者の追善や供養や冥福を祈るためにやるのではなく、報恩感謝と人生の意義を自覚するためにやるものだと仏教教団では説いていますが、普段から仏教を特に宗教として取り上げて勉強していない我々一般の市民感覚では「死者の冥福を祈り」「先祖の供養」をしてなにが悪い、という気持ちの方が強いと思いますし、またそのことが宗教心への出発点だと思っています。先祖を敬う心が家族の絆を強め、そしてその心が地域や社会への連帯心と広がっていく原動力になると信じていますから…。
1年に1回あるかないかの仏事で、ありがたい法話を聞くのもいいことには違いないが、そのような席では慎ましく下を向いて足の痛いのを我慢するのは仕方ないとしても、喪主の頭の中はお布施の額のことで一杯というのでは供養も冥福もありません。このような物質文明に汚染された今の社会生活において一般の人には、そもそも法話を聞く下地がないのに、そこにいきなり浄土とか真如などと説かれても戸惑うばかりではないかとも思います。われわれが本来の人間生活を取り戻すには、まず葬式仏教と揶揄されていることを逆手に、もう一度死者との関わり方をいろいろの方面から掘り下げていくことが大事なことのように思います。それを探る前提として僧侶の活動が布教を含めて、もっともっと現実の社会に直接コンタクトしたものであるべきであり、そのためにはあらゆる奉仕活動的なもの、そしてまた真の住民活動的なものも必要だろうと思います。その拠点が檀那寺であるという意識が寺側にも、また檀家側にもなければならないし、そこに集うこと自体が楽しみの場になるようにみんなで築き上げなければならないものだと思います。檀那寺の運営には檀家総代制度がありますが、総代や役員は先祖代々変わる事なく引き継がれている例が多いと思います。「継承と改革」の意義が理解できない人々の単なる世襲制では本来の仏教の意義を若い世代に継承していくことはできないでしょう。報恩講等でのお布施の多寡を本堂の長押に張り出すことだけが唯一の信心の尺度であるかのようなやり方はどこの寺でもやっていることとはいえ、そこから一歩も突き進まないことには檀家制度の未来はどうなのか?…仏事あり本堂開けり高楊枝…では困りますし、今すぐやるべきことは住職と檀家との改革に向けた開かれた対話であると信じます。