癒しの話や相談のできるお寺を 大きい文字で見る
菅井起代江 茨城県
去年四月姑88才が亡くなりました。葬儀社を頼み、夫は長男、妹弟は九州で遠く、着くまでに喪主となった夫と打合せ、通夜、葬儀と無事済ませた時は、本当にホッとしました。数年病気がちの姑の世話、入院三カ月後の死去の後、無事見送れたことにもホッしたのが本心です。舅は夫10才の時亡くなり、実家の墓へ納めていただいてたのを、23回忌の折、市内の寺内墓地を求め、法事、納骨しており、12年前義弟の急死の折も妻子と離別していたので、夫が喪主となり墓に納めてありましたので、通夜、葬儀の折、お寺から来ていただきました。葬儀の折は当地の慣習で45[49?]日までのお経をあげてもらいました。お寺への支払いは、そちらで決めて下さいとの葬儀社の話でしたので、私の弟妹に聞き(地元在住の上、葬儀を出した経験有)永代供養経代20万円、戒名料20万円は最低の相場と聞き、それに決め、信女の戒名をいただきました。通夜、葬儀の間のお経は意味不明、お寺さんと顔を合わせたのは、通夜、葬儀とはいえお経の声を聞いただけでした。その後、百ヶ日、一周忌の法事時、お寺の本堂でお経をあげてもらい3万円、10万円(義父50年、義弟13年も頼んだので)お布施としてあげました。その他彼岸、盆、命日は花、線香で墓に参り、お寺さんとは顔を合わせることもなく、一年3千円の護寺費を届けるだけという関係だけです。
先日、NHKテレビで「瀬戸内寂聴のいのちの法話」を見ましたが、お寺さんとはこうあれば、葬儀仏教で終らずにすむのではと思いました。又、以前、モンゴルでは死が近づくと、僧がよばれ、死ぬまでの間付き添ってお経をあげ、世話をする仏教を思い出す。
そもそも私は前から、どうして人は死んで骨を残し保存することになったんだろうと疑問に思うことがあった。キリスト教、回教の場合は遺体埋葬で、日本も土葬の時代まではそうだったわけだが、それは「土に返す」ためのものだったのではなかろうか。その人の生きた証は、それをおぼえてくれている人の心に残ればよいのではないか。第一、この頃は自然葬といって墓を求めない人も出てきたが、一家が一カ所づつ墓を求めていったら、その分の土地といい、それを守り伝えていくことといい、大変なことではないか。
ともあれ、今考えているお寺さんのあり方への願いは、寂聴さんのようにいやしの話や相談ができるような方になってほしい。この5月に中学時代の同級生ががんで亡くなった折、親鸞の孫直系の浄土真宗願入寺さんの今までのお経に、私達にも分る日本語のお経、遺族への慈愛あふれる話には、とても心静かにおくることができたような気がします。戒名もなければ、義父の23回忌の折、墓地を移した時、宗派がちがうので戒名を付けかえなければ「過去帳」にのらないからといった説明は江戸時代のままを引きづっているようなあり方を改められるのではないでしょうか。お金によって戒名がちがうのではないといわれるけれど現実は、そのとおりですから。自由な葬儀をするには、寺内に墓があってはできませんし、かといって今さら別に墓を求めるほど豊かでもありません。私自身は「なるようになる」という脳天気でいく他なさそうですが。