形式より真心こめて  大きい文字で見る

瀬川節子(68) 北海道

 (1)葬儀について
 現在は家族の意見を聴かないで、祭壇は五十万、百万と揃っていて不要なもの多い。ローソク、線香は賣る程たくさんついてくる。ぬけのローソクでない、清楚で美しい霊界への旅立ちをさせてほしい。
 特に中央に置く一膳めしに箸を立てるのは此の世のために子供を生み育て、社会のためにその使命を果たされた方に対して、何とも、わびしい気の毒でならない。わたしは反対である。幼い頃から、一膳めしを見るのがつらかった。
 (2)戒名について
 戒名ないと葬式出せないと浄土真宗派のわが家で言われ、こんながっかりはなかった。
 そんな法律があるのかと今も思っている。
 わたしは両親の戒名いまだ読めない。子供たちや孫たちには祖父母や両親の実名が一番良いと信じている。
 現代の僧侶さんは、あの世を見る力ないはずなのに、戒名(生前中)をつけて七十万、八十万と受けている。霊界で必要ないのに金銭を受けとるとは、いかに金銭欲におぼれ、罪悪でなかろうか。
 (3)漢文の経文の一節でもよい一般の人にわかるように説法できないものか。
 高価な衣に身を包んでいるものの少なくとも葬儀、法要の場を利用して釈迦の説かれた、四苦、八苦でも、仏説八正道でも、何でもよい。此の世は良い事ばかりはない。
 しかし、その中で、人々を大切にして豊かに生きるべきか説いて欲しい。現代であるからこそ僧侶の出番であるが、町内会長と同じような説法であり、高い布施が泣いているように思える。すべての人は人生で何回となく葬儀や法要に出ている。この場を逃して僧侶は単に骨と墓の守りでよいか。わたしは訴えたい。先日も、ようやく生・老・病・死について話されたが、最後のしめくくりなし。坊さん大学に何をしに行っているのか。わたしは知りたい。
 (4)寺とのつき合い
 わたしの場合、夫をお送りいたして十年、お盆の家庭訪問は仕事の都合あり、またあまりにも早い経文が終ると「ハイ、ご浄土に向かいました」と一言多いのである。さきにも申したように、霊界を見通す法力がある僧侶はいないと思いますので、こちらの方からご布施や維持費、納骨堂使用料を持参して仲良くお付き合いをしています。わたしの骨は故郷の山に散布して森林の成長に役立ちたい念である。釈迦は葬式の儀式の仕方など説いていないと本を読んだことがある。霊界には美しい心のみ、肉体は霊界の影で使命終了と信じている次第である。故に形式より真心こめること忘れてはならないと思うのである。


戻る