日本仏教を改革せよ  大きい文字で見る

西山 中 千葉県

 「大袈裟な言い方をすれば、日本仏教は仏教ではない」この言葉は、真言宗の高野山大学教授、浄土真宗の大谷大学教授を歴任した五来重教授の著書『日本の庶民仏教』角川選書の冒頭に述べられている。さらに教授は「日本仏教の根底には民間信仰がよこたわっている。大部分の庶民は、信仰内容においては、およそインド・中国の仏教と似ても似つかないものとなっている」(一部省略)と記述している。
 この言葉は、現在の日本仏教に対して「中らずと雖も遠からず」と言う印象を与えていると思う。だとすると、仏教を象徴する寺院や僧侶のステータスをどこに求めたらよいのであろうか? 先祖の眠る聖地として墓を建立し、檀家として且那寺に帰依・奉仕してきた日本人の先祖供養そのものの形「寺と墓」が、共にここのところ自然葬の普及によって崩壊の兆を見せてきている。
 現在日本の仏教は、鎌倉時代の法然、親鸞、道元、日蓮等の開かれた宗派仏教である。その発生は七千数百巻、八万四千という膨大な漢訳仏典によってもたらされた釈迦の教説の日本的選択である。
 日本の仏教について、浄土宗の大正大学の増谷文雄教授は、その著『日本人の仏教』角川書店において「もしも、仏陀をして今日この国に再生せしめ、この国の仏教に当面せしめたならば、かれは、おそらく、驚きの眼をみひらくであろう。なんとなれば、この国の有する仏教の歴史と現実とが、かれの創始した仏教と、あまりにもとおく異なったものであるからである」と述べている。
 増谷教授の提唱する日本仏教改革の尺度は、釈迦の実生活と直説を伝えるとされる南伝仏教である。仏陀は、出家者の生活を三衣一鉢とした。今日流に言えば、托鉢に生きる行雲流水の僧侶の生活である。決して、贅沢な庫裡に起居して檀家の布施に寄寓・安住の生活をむさぼる生活態度を教えたのではない。「清貧」を説いたのです。
 一時的に寺院は、明治の廃仏毀釈では信仰上の転換を迫られ、第二次世界大戦後の農地改革では、経済的な基盤を失った。ところが日本経済の復輿と豊かな生活に支えられた庶民の先祖供養思考は、伽藍建築を盛んにし、あいつぐ墓碑の建立で失った体力を取り戻した。ところが、ここにきて自然葬の普及と老人福祉の時代である。老人間題の多くはターミナル・ケアや、老人介護の問題と結びつく。寺院がこの問題に眼を瞑るようでは、その将来はない。ますます衰退の道を早めることになるであろう。

 合掌


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